ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、オーストリア出身の世界的哲学者。
と、まるでウィトゲンシュタインが2人いるみたいに言及するのがお決まり。
ある程度哲学的な話題なら、なんの前触れもなく、
と、もはやウィトゲンシュタインが2人いるのは、前提として扱われる。
私は、そういうウィトゲンシュタインの扱われ方を見かけるたびに、少しずつ違和感を溜めていた。
そしてこのたび、とうとう閾値を越えて決壊して、
ウィトゲンシュタインを前期と後期で別人扱いする理由
まず、言葉の正しい用法は、言葉を特定の事実や現実に、1対1で対応させる方法である(写像理論)。
それなのに人間は、「神」とかを言葉や想像でしか知覚できていないし、特定の現象や現像を写し取って「神」とかを表現しているわけではない。
神を写し取れないのに、「神」とかいったり、「神はいるのかいないのか」とか考えたりしても意味不明だし、
ウィトゲンシュタインは、上記結論をもって、哲学に終止符を打ちました。
それから、田舎の小学校教師をやったり、挫折したりしながら過ごします。
が、やがて、
と思ったウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学に戻り、とりあえず『論理哲学論考』の功績で博士号を取得したり哲学教授になったりします。
そして、『論理哲学論考』で展開した「写像理論」から転換して、
このように、一口に「神」といっても、さまざまな意味で語られ・受け取られる。
言葉は、特定の事実に対応する前に、特定のルールに対応している。
したがって、言語はルール込みで、なにに対応しているのかを考える必要がある。
それはあたかも、ゲーム上のプレイが、ルールによって意味付けられるように。
もちろんここでいう「ゲーム」という言葉も、「先進的な人間社会における抽象的な例え話」というルールに則って、サッカーでも株取引でもスマホゲームでも良い(ゲームが存在しない社会で「ゲーム」は意味不明だし、感情がルールの生き物に「理論」も意味不明である)。
- ディエゴ・マラドーナ(サッカー)
- アダム・スミス(経済学)
ルールが、①「サッカー」なのか②「経済学」なのか③「謎の新興宗教」なのかで、対応する事実は違う。
さらに、「神の手」の意味合いが「賞賛」か「侮蔑」かなども、「プレイヤー(発言者・受取手)」や「状況(時と場合・その場の空気)」など対応するルールによって違う。
以上が、
ウィトゲンシュタインだけを特別扱いするのはおかしい
若いときと晩年とで、なんにも変わっていなかったら、そいつまるで成長していないってことにならない?
長生きしていれば、いろいろライフイベントとかも起きているだろうし。
たとえば、
- 代表作『全体主義の起源』や『人間の条件』までのアーレント
- 問題作『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』以降のアーレント
ドイツ系ユダヤ人のアーレントが、アイヒマン裁判……ナチス・ドイツの戦犯裁判……を傍聴してレポートを書き上げて、大論争を巻き起こした事件。
この「アイヒマン論争」というルールが適用される以前と以降とでは、アーレントの哲学や、その意味合いは絶対に違う。
でも、
みたいな表現は、お目にかかったことがない(ググらなきゃ見つからないなら、一般的ではない)。
私はどちらかといえば、ウィトゲンシュタインより、アーレントのほうが詳しいぐらいなのに!(どっちも大して知らないけど。アーレントの映画は観たし、感想記事も書いた。ウィトゲンシュタインの映画は観ていない)。
あるいは、「前期」「後期」どころじゃなく、分割できる思想家もいる。
私は30歳で、学問の基礎を学んで自立しました。
私は40歳で、道理を知り迷いがなくなりました。
私は50歳で、自分の生きる意味がわかりました。
私は60歳で、他人の話を素直に理解できました。
私は70歳で、己の欲求が人の道理に外れません。
- 志学(15歳)
- 而立(30歳)
- 不惑(40歳)
- 知命(50歳)
- 耳順(60歳)
- 従心(70歳)
と、孔子の言葉が転じて、年齢の区分まで生じている(日本の辞書にも載っている)。
でも孔子について語るときに、「前期孔子」とか「後期孔子」とかいわない。
ともいわない。
自立したばかりの孔子と、天命の体現者と化した孔子とでは、明らかに違うはずだけど。
それでも、孔子は「孔子」だし、アーレントは「アーレント」だし、ウィトゲンシュタインだけ、
なんでウィトゲンシュタインだけ、分割するのが当たり前みたいになっているんだよ。
ふざけすぎだろ。
わかりやすいから?
↑意味同じじゃない?
別に「前期」みたいな補足がなくても、ウィトゲンシュタインを知っていれば、
~ウィトゲンシュタインを知っている場合~
ってわかるでしょ?
『論理哲学論考』を読んでいない私でもわかるよ!!
逆にウィトゲンシュタインを知らなければ、
~ウィトゲンシュタインを知らない場合~
ってなって、『論理哲学論考』のことだとはわからない(「一旦」という留保から、のちに否定があるっぽいと推察はできる。けど、この推理には「一旦」があれば十分で、「前期」は不要。逆に「一旦」を削除して「前期」だけなら、ウィトゲンシュタインは前期の段階ですでに哲学を終わらせて、後期で別の道に進んだのか……? と誤解を招く。半分は合っているけど)。
したがって、「前期」とか「後期」の有無にかかわらず、
- 「前期」
- 「後期」
みたいな表記は、理解の難易度やわかりやすさには貢献しない。
だから、
いきなり後期ウィトゲンシュタインになって登場するな
夕方、コーヒーを飲みながら打ち合わせを終えると、相手はさっさと帰った(薄情なやつだ)。
代わりに、
別にウィトゲンシュタインを扱った本じゃなかったし、実際ウィトゲンシュタインの話は数行で終わった(その本は、カフェorバーで知的ぶりたい客のために置かれている本棚にあったエッセイだった。私とお店の特定防止のためにタイトルは伏せるけど)。
それなのに、
と思うと、異常におかしくなってきた。
私の脳みそは、仕事と読書で残りカスみたいに干からびていて、そこにカフェインとアルコールと「後期ウィトゲンシュタイン」が染み込んできた。
と、思えば思うほど、おかしくなってきた。
私のカフェインは、アルコールに導かれて、それまで積み重ねてきた(そして本記事で言語化した)違和感をほとんど一瞬で捉え直して、
私はもう笑うしかなかった。
そのエッセイでは、ほかにも哲学者や著名人が引用されていたけど、「後期」の姿で登場したのはウィトゲンシュタインだけだった(もちろん、「前期」もいない)。
なにかの解説書とか辞書とか論文とかならまだしも、
バーの店員さんたち、その場に居合わせたお客さんたち、ごめん……。
いきなり吐きそうな勢いで笑いながらトイレに駆け込んだ異常者が現れて、ビックリしたよね……。
悪いのは、いきなり後期になって登場したウィトゲンシュタインなんです。
おまけ:正しい読み方はどっち?ヴィトゲンシュタイン
ドイツ語の「Wi」は、カタカナで表記すれば、「ヴィ」と発音するのが正しい。
でも慣習によって、「ウィ」になったらしい。
ソース:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン – Wikipedia – 2022年6月22日閲覧。
- 「Ludwig」
- 「ルートヴィヒ」
上記Wikipediaの項目を見ても、「Ludwig」の「wi」は、正確に「ヴィ」と読めている。
それなのに、
- 「Wittgenstein」
- 「ウィトゲンシュタイン」
おかしくない?
これがまだ、
だったらわかる。
ああ、「Wi」は「ウィ」って読んじゃうよね……外国語の発音を訳すのは難しいからね、しょうがないね……ってなる(ウィトゲンシュタインの出身地、オーストリアの首都「Wien」も「ウィーン」だしね!)。
けど、
- 「Ludwig」
- 「ルートヴィヒ」
- 「Wittgenstein」
- 「ウィトゲンシュタイン」
なんの言語ゲームが始まっているの? これ。
漢字の読み方みたいに、独自のルールで読み方が変化するならわかるけど、そんなルールないっぽいし。
とりあえず、なにが起きたのかは知らないけど、WikipediaとかAmazonとか関連書籍の表記、
もう「ルートヴィヒ」と「ルードヴィヒ」とか、「ウィトゲンシュタイン」と「ウィットゲンシュタイン」みたいな壮大な表記揺れはいいからさ。
私が問題視しているのは、各時代や各人における発音の解釈違いじゃなくて、同時代や同一人物によるセンテンスなのに「Wi」の解釈が不揃いなその醜い非論理的な美的センスだから。
って考えると、やっぱり、
が正解だと思う。
でも非論理的な慣習のせいで、私がウィトゲンシュタインを知ったときには、もうすでにウィトゲンシュタインはウィトゲンシュタインだった。
だから、いまさら「ヴィトゲンシュタイン」って表記するのは、すごい違和感があるし、
どんなにヴィトゲンシュタインに詳しくても、Wikipediaにすら不正確さが記載されている読み方をいまだに続けているやつは、誤りを正せないアホだ(しかも不細工だ)。
たしかに言葉は通じれば良いが、ことヴィトゲンシュタインに関しては、論理的整合性を追求したほうが良い。
さようなら、ウィトゲンシュタイン。
ヴィトゲンシュタイン(原題:『WITTGENSTEIN』、1993年のイギリス映画、日本語字幕版)を観ました。安田尊@『ヴィトゲンシュタイン』を謳うブログ。20世紀を代表する世界的哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの伝[…]