神様が存在しないならなぜこの素晴らしい世界は存在するのか?
~哲学者ニーチェの名言~
さて、ニーチェは100年以上前に神の死を宣言しましたが、ニーチェの言葉はキリスト教的な伝統宗教との決別を意味します。
本記事で扱う神とは、イエス(キリスト教)やアッラー(イスラーム教)など、特定の宗教の神ではありません。
超自然的で神秘的な存在、私たちがぼんやりと意識している神であり、トイレでお腹が痛すぎるときに祈るような神であり、
~科学者アインシュタインの名言~
と、アインシュタインが98年前に述べたような神でもあります。
現代日本の一般世論においては、科学信仰に基づいて創造神や創造論は否定されがちですが、はたして科学は神を否定できるでしょうか?
では以下目次です。
スピノザの汎神論とは?神は無限で神即自然
~素晴らしき世界~
なぜなら、あまりにも正しすぎて美しすぎるからです。
その正しさや美しさとは、まさに神を否定しようとする哲学や科学それ自体として、論理構造や物理法則として表れています。
だから古代から現代に至るまで、むしろ偉大な哲学者や科学者や数学者こそ、神様を信じてきました。
~哲学者スピノザの思想~
たとえば「神に酔える哲学者」スピノザは、汎神論を唱えました。
汎神論では、いわばまさに森羅万象が神であり、この世界は神様が創ったというより神様と同一であると主張します。
なぜなら全知全能たる神は無限の存在であり、無限の存在であるなら宇宙も太陽も月も星も海も山も大地も私もあなたも神という存在の一部(と人間の表現上&認識上&便宜上は区別されるかもしれませんが、本質的には区別されない全体としての神)です。
人格神とは、イエス(キリスト教)やアッラー(イスラーム教)のような、天使や預言者(人間の姿や言葉)を使って人間と意思疎通を図ってくる感じの神です。
たとえば、善人には天国をチラつかせて励ましたり、悪人には地獄に落とすと脅迫したりしてくる神です。
いやいや、そんな人格神の遣わす天使だの預言者だのは嘘だろうと考える場合でも、
と、天才科学者アインシュタインも述べています。
汎神論にはいくつかのバリエーションがあるので、アインシュタインが完全にスピノザ(あるいは汎神論)に同意していたかは不明です。
しかし、スピノザ(汎神論)の一部には確実に同意していたし、私たちにも受け入れやすい信仰の折衷案をも抱いていました。
アインシュタインの神とは?自然や物理法則
~科学者アインシュタインの名言~
さて、上記アインシュタインのセリフは、実際には量子力学における確率論への反論ですが……。
まあ難しい話は抜きにして、なぜ神がサイコロを振らないのかを考えてみましょう。
まず私たち人間が一般的な1~6の目のサイコロを振る理由は、どの目が出るかは実質的には偶然性やランダム性、6分の1の確率論で語るしかなく、
- サイコロの形状
- サイコロの材質
- サイコロの大きさ
- サイコロの重さ
- サイコロの重心
- サイコロの位置
- サイコロの向き
- サイコロの速度
- サイコロの回転
- 着地点、重力、空気抵抗、摩擦係数……etc
もしもサイコロを振らずに結果を知ろうとすれば、①~⑩「サイコロを振る条件および関連する法則」をすべて解き明かした上で、正確に計算しなければなりません。
人間には(少なくとも日常的には)、そんな計算や理解の仕方は不可能だからサイコロを振るのであり、結果はランダムに見えます。
一方で神様=法則だとすれば、神様は①~⑩「サイコロを振って出る目の法則」を全知しており、
神様は、サイコロを振る状況や条件に至った原因から、「サイコロを振る」という行為がどのように実行されどのような結果をもたらすのかまですべてお見通しです。
「サイコロを振る」と心の中で思ったならッ!
その時スデに計算は終わっているんだッ!
というわけです。
元々の量子力学の確率論を巡る議論は、いわばこの「すべての法則を解明すればすべてのサイコロの出る目は予め決定されておりサイコロを振るまでもなく計算可能(古典物理学/決定論の法則)」VS「すべての法則を解明しても確率でしか計算できない量子世界があり量子サイコロは振らないと結果がわからない(量子力学/確率論の法則)」の戦いなのですが、深く踏み込むと量子サイコロは1~6の目まですべてが同じ確率で平等にランダムにしかも同時に重なり合って出た上で1~6の目それぞれが観測される並行世界(または多元宇宙)に分岐分裂しており我々が現在観測する宇宙においてどの目が観測されて事実として確定するかは6分の1の確率論でしか語れないかもしれないよね(いや知らん)などという意味不明な議論に突入するのでここでは深くは踏み込みません。
ここで踏み込みたいのは、神がサイコロを振るのか否かではなく、
なぜ法則は存在する?因果関係の始まりの神
~この世界の決まりを決めた神~
- 大前提……M⇒P
- 小前提……S⇒M
- 結論……S⇒P
上記は最も基本的な三段論法ですが、具体例に当てはめると①「M(人間)はP(生まれて死ぬ運命)」。
②「S(あなた)はM(人間)」。
③「S(あなた)はP(生まれて死ぬ運命)」。
このように正しい論理構造を持つ計算と答えは、常に一貫性と公平性を保つために、私たちは正義や美や善といった概念を感じます。
算数でいえば1+1=常に2であり、気まぐれで=3とか=200とかにはずれたりしない正しさ&美しさです。
そこで思いだすのが、IT業界では常識の「バグのないソフトウェアは存在しない」という教訓です。
たとえばこの世界が、人間のプログラマーが作ったゲームの世界なら、本来死ぬはずのキャラクターがバグって不死属性持ちになったりすることはあるでしょう。
しかし私たちが生きる世界において、年齢や寿命やHPや耐久値の計算がバグって不老不死になった人間はいません(少なくとも人間に認識される限りは)。
だから私たちは、自分が1度も死んだ前例はないにもかかわらず、人間に生まれたからには死ぬに決まっていると正確に計算できるんだし、
- 人間はミスをする生き物だ
- この世界にミスはない
- この世界の創造主は人間ではない
そう私たちは確信しますが、①②③「これ」もまた正しすぎて美しすぎる計算によるものだと気付かされます。
そこで不思議に思うのが、この正しすぎて美しすぎる計算方法は、いったいどうやって生まれたのでしょうか?
この完璧な世界には、もちろん「どうやって生まれたの?」を計算する法則もちゃんと存在します。
- 原因……あなたは生まれた
- 結果……あなたは死ぬ
私たちは①②「因果関係」によって、①「あなたは生まれた」という原因から、②「あなたは死ぬ」という結果を計算したり……。
さらに、①「あなたは生まれた」を結果とするなら、⓪「あなたの親が出産した」という原因を逆算したりできます。
ではこのような計算方法があることを神に、あるいは計算方法の生みの親に感謝するとして、
そうしてひとまず全体像を把握するために、私(結果)を基準に逆算して、私の先祖(原因)まで超スピードで巻き戻していって……。
とりあえず進化論を採用すると、私の先祖(結果)⇒サル的祖先(原因)となります。
さらにサル的祖先(結果)⇒単細胞(原因)、単細胞(結果)⇒海(原因)、海(結果)⇒地球(原因)と夢中になって遡っているとふと気付きます。
- 原因……??
- 結果……世界
科学においては、世界……すなわち宇宙の始まりは、ビッグバン(なんか物凄いエネルギーで宇宙が膨張して爆発的に広がったっぽい現象)などと説明されます。
しかしそれでは、そのいきなり発狂しながら登場する謎エネルギーや謎空間(結果)はどこから来たのでしょうか?(原因?)
宇宙の始まり以降は、わりと論理的に科学的に物理法則で計算できる感じなのに、
- 原因……??
- 結果……宇宙
ということは、ここで因果律が発生しているのでしょうか?
宇宙の始まりと同時に因果律も生まれている、よって宇宙の始まりや因果律やそれらの生みの親には因果律が適用できない。
しかしそう考えると、因果律は宇宙の始まり以降だけを解き明かす、不完全な法則だということになり、
なぜなら、宇宙の始まり以前や、因果律が適用できない領域に神様が存在するかもしれないよねといわれればだれも否定できません。
私たちが不完全な計算方法しか持たず、宇宙の一部しか計算できないと認めるなら、全体についての計算はすべて無意味と化します。
あるいは因果律を完全な法則だと認めるなら、同時に無限の存在をも認めることになり、
そしていずれにしても、こんなに正しくて美しい論理構造を持った世界であるにもかかわらず、その原初にだけは永遠に到達できないと認めざるをえません。
キリスト教もイスラーム教もユダヤ教も、汎神論もサイコロを振らない神(古典物理学)もサイコロを振る神(量子力学)も、三段論法も因果律も進化論も……。
宗教も哲学も科学も、どんな教えも論理も法則も、なぜそのような神や論や法が存在するのかは答えられない人知を越えた領域があると認めることになります。
まとめ:無数に数があるなら無神に神はある
- スピノザの汎神論は森羅万象すべてを神と同一視するが、すべてとはいわないまでも、自然法則は神の偉業ではないか?
- アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といったが、仮にサイコロを振るとしても、その存在が神ではないか?
- この世界は正しすぎて美しすぎる、それなのになぜ正しくて美しいのかはだれにもわからない、そこに神がいるからだ!
以上です。
然るにスピノザの神=無限とする前提は正しく、仮に神が無限全体ではなかったとしても、無限の先端にお隠れになったのでしょう。
なぜなら神は人知を越えており、人知を越えているという意味で人間には到達不可能な天文学的存在性を有しており、
~天文学者ガリレオ・ガリレイの名言~
とガリレイが指摘したように、たとえば数学や無限と呼ばれる論理法則のみを形見に、自らの万能性と到達不可能性を同時に示したのです。
私たちは無限が存在することを知っている(素数とか円周率とか)、しかし無限の終わりに到達することはできない……。
以上、「無限」は「無数」とも書きますが、つまり「無神」もそのように捉えるべきなのでしょう。