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【哲学】ウィトゲンシュタインを前期と後期で分ける意味

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、オーストリア出身の世界的哲学者。


前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
前期ウィトゲンシュタイン

後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@後期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
後期ウィトゲンシュタイン

と、まるでウィトゲンシュタインが2人いるみたいに言及するのがお決まり。

ある程度哲学的な話題なら、なんの前触れもなく、


後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@後期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
たとえば後期ウィトゲンシュタインも、『哲学探求』で対話スタイルを採用しているが……

と、もはやウィトゲンシュタインが2人いるのは、前提として扱われる。

私は、そういうウィトゲンシュタインの扱われ方を見かけるたびに、少しずつ違和感を溜めていた。

そしてこのたび、とうとう閾値を越えて決壊して、


Question 安田尊@Questionを謳うブログ。
なんでこいつだけ、前期と後期に分けられているんだよ……

笑 安田尊@笑を謳うブログ。
と思うと、ひとりで爆笑してしまった。

ウィトゲンシュタインを前期と後期で別人扱いする理由


前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
前期ウィトゲンシュタインは、代表作『論理哲学論考』が中心テーマ
論理哲学論考 安田尊@論理哲学論考を謳うブログ。
結論「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」が有名。

神 安田尊@神を謳うブログ。
「語りえぬもの」とは、たとえば「神」。

まず、言葉の正しい用法は、言葉を特定の事実や現実に、1対1で対応させる方法である(写像理論)。

それなのに人間は、「神」とかを言葉や想像でしか知覚できていないし、特定の現象や現像を写し取って「神」とかを表現しているわけではない。

神を写し取れないのに、「神」とかいったり、「神はいるのかいないのか」とか考えたりしても意味不明だし、


前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
そういうの、真偽不明だから黙ってろ

ウィトゲンシュタインは、上記結論をもって、哲学に終止符を打ちました。

それから、田舎の小学校教師をやったり、挫折したりしながら過ごします。

が、やがて、


前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
『論理哲学論考』、間違ってるっぽい……?

と思ったウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学に戻り、とりあえず『論理哲学論考』の功績で博士号を取得したり哲学教授になったりします。

そして、『論理哲学論考』で展開した「写像理論」から転換して、


後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@後期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
後期ウィトゲンシュタインは、代表作『哲学探究』が中心テーマ
言語ゲーム 安田尊@言語ゲームを謳うブログ。
新理論「言語ゲーム」が有名。

Question 安田尊@Questionを謳うブログ。
ここで問題、神はいるのかいないのか?
手塚治虫 安田尊@手塚治虫を謳うブログ。
神はいる、その証拠に手塚治虫は神だ!
神絵師 安田尊@神絵師を謳うブログ。
ムホホなイラストをくれる絵師も神だ!
いらすとや 安田尊@いらすとやさんを謳うブログ。
イラストなら、いらすとやさんも神だ!

このように、一口に「神」といっても、さまざまな意味で語られ・受け取られる。

言葉は、特定の事実に対応する前に、特定のルールに対応している。


手塚治虫 安田尊@手塚治虫を謳うブログ。
手塚治虫は神だ!

ルール 安田尊@ルールを謳うブログ。
という言葉は、「日本語の教養」や「日本の漫画」というルールを共有している人間には通じるが、ルールを共有していない人間には意味不明である(ルール「手塚治虫」を知らなければ、手塚治虫が神か人か虫かはわからない。ちなみにペンネーム)。

したがって、言語はルール込みで、なにに対応しているのかを考える必要がある。

それはあたかも、ゲーム上のプレイが、ルールによって意味付けられるように。

もちろんここでいう「ゲーム」という言葉も、「先進的な人間社会における抽象的な例え話」というルールに則って、サッカーでも株取引でもスマホゲームでも良い(ゲームが存在しない社会で「ゲーム」は意味不明だし、感情がルールの生き物に「理論」も意味不明である)。


神の手 安田尊@「神の手」を謳うブログ。
「神の手」という言葉の意味は?

  1. ディエゴ・マラドーナ(サッカー)
  2. アダム・スミス(経済学)

ルールが、①「サッカー」なのか②「経済学」なのか③「謎の新興宗教」なのかで、対応する事実は違う。

さらに、「神の手」の意味合いが「賞賛」か「侮蔑」かなども、「プレイヤー(発言者・受取手)」や「状況(時と場合・その場の空気)」など対応するルールによって違う。

以上が、


前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
前期ウィトゲンシュタイン

後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@後期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
後期ウィトゲンシュタイン

ルール 安田尊@ルールを謳うブログ。
に分けられている理由なのは知っている(つもり、一応)。

ウィトゲンシュタインだけを特別扱いするのはおかしい


進化論 安田尊@進化論を謳うブログ。
でもゆって、だいたいの哲学者って、キャリア序盤と終盤では結構主張が違うんじゃないの?

若いときと晩年とで、なんにも変わっていなかったら、そいつまるで成長していないってことにならない?

長生きしていれば、いろいろライフイベントとかも起きているだろうし。

たとえば、


ハンナ・アーレント 安田尊@ハンナ・アーレントを謳うブログ。
私がこの前観た映画『ハンナ・アーレント』の主人公、ハンナ・アーレント。

  1. 代表作『全体主義の起源』や『人間の条件』までのアーレント
  2. 問題作『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』以降のアーレント

ドイツ系ユダヤ人のアーレントが、アイヒマン裁判……ナチス・ドイツの戦犯裁判……を傍聴してレポートを書き上げて、大論争を巻き起こした事件。

この「アイヒマン論争」というルールが適用される以前と以降とでは、アーレントの哲学や、その意味合いは絶対に違う。

でも、


前期アーレント 安田尊@前期アーレントを謳うブログ。
前期アーレント

後期アーレント 安田尊@後期アーレントを謳うブログ。
後期アーレント

みたいな表現は、お目にかかったことがない(ググらなきゃ見つからないなら、一般的ではない)。

私はどちらかといえば、ウィトゲンシュタインより、アーレントのほうが詳しいぐらいなのに!(どっちも大して知らないけど。アーレントの映画は観たし、感想記事も書いた。ウィトゲンシュタインの映画は観ていない)。

あるいは、「前期」「後期」どころじゃなく、分割できる思想家もいる。


孔子 孔子のイメージ
子曰く、吾十有五して学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず。
孔子 安田尊@孔子を謳うブログ。
私は15歳で、学問の世界に生きると決めました。
私は30歳で、学問の基礎を学んで自立しました。
私は40歳で、道理を知り迷いがなくなりました。
私は50歳で、自分の生きる意味がわかりました。
私は60歳で、他人の話を素直に理解できました。
私は70歳で、己の欲求が人の道理に外れません。

  1. 志学(15歳)
  2. 而立(30歳)
  3. 不惑(40歳)
  4. 知命(50歳)
  5. 耳順(60歳)
  6. 従心(70歳)

と、孔子の言葉が転じて、年齢の区分まで生じている(日本の辞書にも載っている)。

でも孔子について語るときに、「前期孔子」とか「後期孔子」とかいわない。


孔子 安田尊@而立孔子を謳うブログ。
而立孔子

従心孔子 安田尊@従心孔子を謳うブログ。
従心孔子

ともいわない。

自立したばかりの孔子と、天命の体現者と化した孔子とでは、明らかに違うはずだけど。

それでも、孔子は「孔子」だし、アーレントは「アーレント」だし、ウィトゲンシュタインだけ、


前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
「前期ウィトゲンシュタイン」

後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@後期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
「後期ウィトゲンシュタイン」

WTF 安田尊@WTF!?を謳うブログ。
WTF!?

なんでウィトゲンシュタインだけ、分割するのが当たり前みたいになっているんだよ。

ふざけすぎだろ。

わかりやすいから?


ウィトゲンシュタイン 安田尊@ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
ウィトゲンシュタインは、一旦は哲学に終止符を打った。

前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
前期ウィトゲンシュタインは、一旦は哲学に終止符を打った。

↑意味同じじゃない?

別に「前期」みたいな補足がなくても、ウィトゲンシュタインを知っていれば、


~ウィトゲンシュタインを知っている場合~

ウィトゲンシュタイン 安田尊@ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
ウィトゲンシュタインは、一旦は哲学に終止符を打った。

ピコーン! 安田尊@ピコーン!を謳うブログ。
ああ、『論理哲学論考』のことね!

ってわかるでしょ?

『論理哲学論考』を読んでいない私でもわかるよ!!

逆にウィトゲンシュタインを知らなければ、


~ウィトゲンシュタインを知らない場合~

前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
前期ウィトゲンシュタインは、一旦は哲学に終止符を打った。

は? 安田尊@は?を謳うブログ。
……前期? なんのこと……?????

ってなって、『論理哲学論考』のことだとはわからない(「一旦」という留保から、のちに否定があるっぽいと推察はできる。けど、この推理には「一旦」があれば十分で、「前期」は不要。逆に「一旦」を削除して「前期」だけなら、ウィトゲンシュタインは前期の段階ですでに哲学を終わらせて、後期で別の道に進んだのか……? と誤解を招く。半分は合っているけど)。

したがって、「前期」とか「後期」の有無にかかわらず、


ウィトゲンシュタイン 安田尊@「ウィトゲンシュタイン」を謳うブログ。
「ウィトゲンシュタイン」というルールを知っているか否かが、理解の有無を決める。

  • 「前期」
  • 「後期」

みたいな表記は、理解の難易度やわかりやすさには貢献しない。

だから、


アーレント 安田尊@アーレントを謳うブログ。
アーレントはどの段階でも「アーレント」なんだし、
孔子 安田尊@孔子を謳うブログ。
孔子は何歳でも「孔子」なんだよ。

いきなり後期ウィトゲンシュタインになって登場するな


カフェバー 安田尊@カフェバーを謳うブログ。
私は仕事の打ち合わせでカフェにきていて、そのカフェは夜にはバーになる的なお店だった。

夕方、コーヒーを飲みながら打ち合わせを終えると、相手はさっさと帰った(薄情なやつだ)。

代わりに、


読書 安田尊@読書を謳うブログ。
私がバーになったお店で、ひとりウイスキーを飲みながら読書をしていると、
後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@「後期ウィトゲンシュタイン」を謳うブログ。
「後期ウィトゲンシュタイン」がいきなり登場してきた。

別にウィトゲンシュタインを扱った本じゃなかったし、実際ウィトゲンシュタインの話は数行で終わった(その本は、カフェorバーで知的ぶりたい客のために置かれている本棚にあったエッセイだった。私とお店の特定防止のためにタイトルは伏せるけど)。

それなのに、


後期ウィトゲンシュタイン 安田尊@後期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
いきなり後期ウィトゲンシュタインの話をするなよ……
前期ウィトゲンシュタイン 安田尊@前期ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
前期ウィトゲンシュタインはどこにいったんだよ……

と思うと、異常におかしくなってきた。

私の脳みそは、仕事と読書で残りカスみたいに干からびていて、そこにカフェインとアルコールと「後期ウィトゲンシュタイン」が染み込んできた。


読書 安田尊@読書を謳うブログ。
ダメだ、笑うな私……バーでウイスキーと読書を嗜む知的でオシャレな自分を見失うな……

と、思えば思うほど、おかしくなってきた。

私のカフェインは、アルコールに導かれて、それまで積み重ねてきた(そして本記事で言語化した)違和感をほとんど一瞬で捉え直して、


Question 安田尊@Questionを謳うブログ。
なんでこいつだけ、前期と後期に分けられているんだよ……

私はもう笑うしかなかった。

そのエッセイでは、ほかにも哲学者や著名人が引用されていたけど、「後期」の姿で登場したのはウィトゲンシュタインだけだった(もちろん、「前期」もいない)。

なにかの解説書とか辞書とか論文とかならまだしも、


読書 安田尊@読書を謳うブログ。
ただのエッセイで前期と後期に分けられているやつ、こいつだけだろ……
笑 安田尊@笑を謳うブログ。
ちょっと待って、ごめん……と思いながら、私は爆笑した。

バーの店員さんたち、その場に居合わせたお客さんたち、ごめん……。

いきなり吐きそうな勢いで笑いながらトイレに駆け込んだ異常者が現れて、ビックリしたよね……。

悪いのは、いきなり後期になって登場したウィトゲンシュタインなんです。

おまけ:正しい読み方はどっち?ヴィトゲンシュタイン


ヴィトゲンシュタイン 安田尊@ヴィトゲンシュタインを謳うブログ。
あと余談だけど、ウィトゲンシュタインは、ヴィトゲンシュタインでもある。

Wittgenstein 安田尊@Wittgensteinを謳うブログ。
ドイツ語:Ludwig Wittgenstein

ドイツ語の「Wi」は、カタカナで表記すれば、「ヴィ」と発音するのが正しい。

でも慣習によって、「ウィ」になったらしい。

ソース:ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン – Wikipedia – 2022年6月22日閲覧。


Question 安田尊@Questionを謳うブログ。
なぜ?

  • Ludwig
  • ルートヴィ

上記Wikipediaの項目を見ても、「Ludwig」の「wi」は、正確に「ヴィ」と読めている。

それなのに、


Question 安田尊@Questionを謳うブログ。
なぜ「ウィトゲンシュタイン」は、「ヴィトゲンシュタイン」にならなかった?

  • Wittgenstein
  • ウィトゲンシュタイン

おかしくない?

これがまだ、


ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 安田尊@ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン

だったらわかる。

ああ、「Wi」は「ウィ」って読んじゃうよね……外国語の発音を訳すのは難しいからね、しょうがないね……ってなる(ウィトゲンシュタインの出身地、オーストリアの首都「Wien」も「ウィーン」だしね!)。

けど、


ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 安田尊@ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」はおかしい

  • Ludwig
  • ルートヴィ
  • Wittgenstein
  • ウィトゲンシュタイン

なんの言語ゲームが始まっているの? これ。

漢字の読み方みたいに、独自のルールで読み方が変化するならわかるけど、そんなルールないっぽいし。

とりあえず、なにが起きたのかは知らないけど、WikipediaとかAmazonとか関連書籍の表記、


Question 安田尊@Questionを謳うブログ。
どっちかに統一しないか?

もう「ルートヴィヒ」と「ルードヴィヒ」とか、「ウィトゲンシュタイン」と「ウィットゲンシュタイン」みたいな壮大な表記揺れはいいからさ。

私が問題視しているのは、各時代や各人における発音の解釈違いじゃなくて、同時代や同一人物によるセンテンスなのに「Wi」の解釈が不揃いなその醜い非論理的な美的センスだから。

って考えると、やっぱり、


ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 安田尊@ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインを謳うブログ。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン

が正解だと思う。

でも非論理的な慣習のせいで、私がウィトゲンシュタインを知ったときには、もうすでにウィトゲンシュタインはウィトゲンシュタインだった。

だから、いまさら「ヴィトゲンシュタイン」って表記するのは、すごい違和感があるし、


ウィトゲンシュタイン 安田尊@ウィトゲンシュタインを謳うブログ。
私は「ウィトゲンシュタイン」表記でいく。

孔子 安田尊@「過ちて改めざる是を過ちという」を謳うブログ。
と思ったけど、それだと非論理的な先人と同じだから、私はこれ以降「ヴィトゲンシュタイン」でいく

どんなにヴィトゲンシュタインに詳しくても、Wikipediaにすら不正確さが記載されている読み方をいまだに続けているやつは、誤りを正せないアホだ(しかも不細工だ)。

たしかに言葉は通じれば良いが、ことヴィトゲンシュタインに関しては、論理的整合性を追求したほうが良い。

さようなら、ウィトゲンシュタイン。

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