ハンナ・アーレント(原題:『Hannah Arendt』、2012年のドイツ・ルクセンブルク・フランスの合作映画、日本語字幕版)を観ました。
です。
本作品に基づけば、アーレントの哲学者としての姿勢は、以下の一言に集約されています。
- 世間の評判
- 周りの空気
- 全体主義……
みたいなものに流されるな、といっています。
日本人的にいえば、「和を乱すな」的な同調圧力には屈しない姿勢。
でした。
というわけで本記事では、映画『ハンナ・アーレント』に学ぶ、
を考えます。
では以下目次です。
映画『ハンナ・アーレント』の簡単なあらすじと要約
~映画『ハンナ・アーレント』のあらすじ要約~
本作の主人公は、1960年以降のハンナ・アーレント(53歳以降)、アメリカ・ニューヨーク州在住の大学教授。
アーレントは、ドイツが誇る世界的哲学者、ハイデガーの愛弟子です(そして愛人でもありました)。
アーレント自身も、名著『全体主義の起源』が評価され、世界にその名を轟かせる政治哲学者です。
そんな晩年に差しかかったアーレントは、親友の女性作家、メアリーに抗議を受けます。
でも ご主人とは私も友達なのよ
絶交はできないわ
他の誰を愛そうと あなたの自由だもの
アーレントは、親友の離婚沙汰について愚痴られますが、客観的な感想を述べて笑い飛ばしながら中立を保ちます。
その頃アルゼンチンでは、元ナチス・ドイツのSS(親衛隊将校)、アドルフ・アイヒマンが捕らえられ、
などと、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙や、テレビのニュースなどでも報じられます。
アイヒマンは、ナチスの「ホロコースト」(ユダヤ人大量虐殺、約600万人)における中心的人物で、ユダヤ人のアウシュヴィッツ強制収容所への移送を指揮したとされます。
アイヒマンの裁判は、イスラエルで開かれます。
アーレントは、ザ・ニューヨーカー誌に連絡します。
ザ・ニューヨーカー誌は、当事者であり高名なアーレントを記者にできると、喜んで受け入れます。
アーレントの友人らも、期待を寄せました。
特に、
などなど。
そしてアーレントは、アイヒマン裁判を傍聴した感想を、現地の同胞クルトたちに語ります。
- 命令だから、
- 任務だから、
- 仕事だから……
アイヒマンは、思考停止で従っただけの、反ユダヤですらない凡人。
「ユダヤ人への憎悪」的なものは、あるとすればアイヒマンの外側にあり、内側にはない。
アーレントの見解は、同胞のクルトたちから反発を受け、激しい議論になる気配が漂います。
しかし、アーレントとクルトは、
と、一応は笑い合います。
その後、アーレントがニューヨークに帰宅すると、若い女性秘書シャルロットが自発的に裁判資料500枚以上を整理し始めて、
自分の娘でも こうはいかない
“家族は神から授かる”
“でも友人は自分で選べる”
その後、アイヒマンの絞首刑(死刑)が決定。
アーレントは、ザ・ニューヨーカー誌への原稿を書き上げます。
“アイヒマンは 風に吹かれて歴史の中へ”
“旋風を巻き起こした 千年王国と共に邁進”
“彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは”
“思考不能だったからだ”
“彼らは ほぼ例外なく”
“何らかの形でナチに協力していた”
“確かにユダヤ人指導者は困窮を防いだ”
“一方で その指導者がいなければ死者も――”
“450~600万人まではいかなかっただろう”
“同胞の破滅に指導者が果たした役割は”
“暗黒の物語における――”
“最も暗い一章だ”
ザ・ニューヨーカー誌の編集会議では、「被害者(ユダヤ人)批判だ」との声が上がります。
しかし、アーレントの記述は、「指導者(ユダヤ人)の証言」に基づいています。
また、「事実しか書かない人だ」との評価もあり、連載と書籍化が決定します。
が、アーレントの原稿が掲載されるや否や、
- 「1ページにつき苦情が100件」
- 「ハンナ・アイヒマン」
- 「地獄へ堕ちろ ナチのクソ女」
などと、電話でも新聞でも手紙でも、誹謗中傷を受けまくります。
同胞のクルトからも、拒絶されます。
同胞に愛はないのか?
もう君とは笑えない
ユダヤ人を愛せと?
私が愛すのは友人
それが唯一の愛情よ
クルト 愛してるわ
アーレントの反論も虚しく、クルトはアーレントに背を向けます。
さらに、アーレントは勤め先の大学側からも呼び出され、人事委員会の全員一致で辞職勧告を言い渡されます。
が、アーレントは拒否します。
私の講義は満員です
学生たちの支持を受けて――私も公に話すことを決めました
ヒステリックな反応についてね
アーレントは、人事委員会を一瞬で論破すると、講義に向かいます。
そして満員の講義で、学生たちに語ります。
アイヒマン裁判を報告しました
私は考えました
法廷の関心は たった1つだと
正義を守ることです
難しい任務でした
アイヒマンを裁く法廷が直面したのは
法典にない罪です
そして それは――
ニュルンベルク裁判以前は前例もない
それでも法廷は彼を――
裁かれるべき人として 裁かねばなりません
しかし裁く仕組みも――
判例も主義もなく
“反ユダヤ”という概念すらない
人間が1人いるだけでした
彼のようなナチの犯罪者は
人間というものを否定したのです
そこには罰するという選択肢も
許す選択肢もない
彼は検察に反論しました
何度も繰り返しね
“自発的に行ったことは何もない”
“善悪を問わず自分の意思は介在しない”
“命令に従っただけなのだ”と
こうした――
典型的なナチの弁解で分かります
世界最大の悪は ごく平凡な人間が行う悪です
そんな人には動機もなく
信念も邪心も悪魔的な意図もない
人間であることを拒絶した者なのです
そして この現象を
私は「悪の凡庸さ」と名づけました
先生は主張していますね
“ユダヤ人指導者の協力で死者が増えた”
ユダヤ人指導者は アイヒマンの仕事に関与してました
彼らは非力でした
でも たぶん――
抵抗と協力の中間に位置する何かは…あったはず
この点に関してのみ言います
違う振る舞いができた指導者もいたのではと
そして――この問いを投げかけることが大事なんです
ユダヤ人指導者の役割から見えてくるのは
モラルの完全なる崩壊です
ナチが欧州社会にもたらしたものです
ドイツだけでなく ほとんどの国にね
迫害者のモラルだけではなく
被迫害者のモラルも
アイヒマンの行為は”人類への犯罪”だと?
ナチは彼らを否定しました
つまり彼らへの犯罪は人類への犯罪なのです
私は攻撃されました
ナチの擁護者で 同胞を軽蔑してるってね
何の論拠もありません
これは誹謗中傷です
アイヒマンの擁護などしてません
私は彼の平凡さと――残虐行為を結びつけて考えましたが
理解を試みるのと 許しは別です
この裁判について文章を書く者には
理解する責任があるのです!
“思考”をこう考えます
自分自身との静かな対話だと
人間であることを拒否したアイヒマンは
人間の大切な質を放棄しました
それは思考する能力です
その結果 モラルまで判断不能となりました
思考ができなくなると
平凡な人間が残虐行為に走るのです
過去に例がないほど 大規模な悪事をね
私は実際――この問題を哲学的に考えました
“思考の風”が もたらすのは
知識ではありません
善悪を区別する能力であり
美醜を見分ける力です
考えることで 人間が強くなることです
危機的状況にあっても 考え抜くことで――
破滅に至らぬよう
アーレントは、学生たちからの満場の拍手でスピーチを終えます。
しかし、スピーチを聴いていた同僚で友人のハンス・ヨナスは、
などと誹謗中傷をして、アーレントに別れを告げます。
帰宅後、アーレントは夫のハインリヒと話します。
何が過ちか言えないのよ
でも友達は選ぶべきだった
アーレントは記事の執筆を続け、疲れてベッドに仰向けになると、タバコの煙を深く吸い込んで吐き出します。
テーマ「友達と家族」「全体主義者」「悪の凡庸さ」
- 「友達と家族」
- 「全体主義者」
- 「悪の凡庸さ」
そして、象徴的なセリフは、アーレントが親友のメアリーから離婚話を聞かされて発した、
このセリフは、「個人の自由」を肯定しています。
上記で挙げた3つのテーマのうち、
- 家族……「家族単位」に縛られるため、個人の自由はない
- 全体主義……「全体」に縛られるため、個人の自由はない
- 悪の凡庸さ……「思考停止」中のため、個人の意思はない
ちなみに例外として、アーレントの夫ハインリヒなどは、「良き夫であり友人」かもしれません。
しかし、友人や夫以外は基本的に、「全体主義」に毒されています。
そこで、アーレントの親友メアリーが、
正直、初見だと、なんでいきなりこんな犬も食わない離婚話の愚痴を観せられているんだ……と、すごく退屈でしたが、見返してみれば納得です。
このシーンは、個人主義による、
だったから、序盤に差し込む必要があったのです。
その証拠に、中盤のシーンでも、
自分の娘でも こうはいかない
“家族は神から授かる”
“でも友人は自分で選べる”
と、「家族」……特に親子関係(血の繋がり)は不自由だ、とディスっています。
そして、終盤のシーン。
クルトは、アーレントの同胞ではありますが、血の繋がった家族ではありません。
では、「クルトは家族」とは、どういう意味なのか?
同胞に愛はないのか?
もう君とは笑えない
↑こんなふうに、全体主義的な言論弾圧を仕掛けてくるクズは、もう「友達」ではないわけです。
クルト自身、「友達」なら、持論を戦わせて終わったあとは仲直りできるといっていました。
「友達」なら、親が子を服従させるみたいに、「愛」を振りかざして降伏を迫ってくるような真似はしないでしょう。
でも現実は、アーレントが嘆いているように、
何が過ちか言えないのよ
「何が過ちか言えない」、バカがこぞって、全体主義的な同調圧力をかけてくる。
そして、反論に値する批判がひとつもないのに、持論の撤回を迫られる。
たとえば、作中で明らかにされている抗議のお手紙は、こんな具合です↓
“唇には侮蔑が漂い 目は残酷だ”
“この写真のページが”
“雑誌全体を汚した”
“素手では汚れるから手袋をはめて”
“そのページを破り取ったが”
“燃やす価値もないからゴミ箱へ”
“私には憎悪などなく 復讐も好まない”
“だが分かる”
“あんたが冒涜した600万人の魂が昼夜――”
“群がるだろう”
“覚悟しとけ”
キモすぎでしょ?
この手紙、秘書のシャルロットが涙目になって読み上げるんですが、私はキモすぎて笑いました。
“私には憎悪などなく 復讐も好まない”のところで吹きました。
こんなヘイトまみれの気持ち悪いポエムを送りつけておいて、
しかも中身ゼロで、最後には”魂”の威を借りて、”覚悟しとけ”。
レスバトルでこんなのが返ってきたら、爆笑モノです。
「憎悪などなく」といえば「憎悪」が消えるわけじゃないし、「魂」といえば「魂」が出てくるわけでもありません。
メアリーといえば、アーレントにも失礼なことや反対意見でもガンガンいえる仲ですが、一貫してアーレントの味方でした。
たとえば、アーレントの記事を「読みもせず批判」しているバカと居合わせたときも、
と、キレッキレの切り返しを見せていました(しかも、アーレントがいない場で)。
これが「友達」ですよね。
個人では、批評どころか消費活動すらままならない無能な全体主義者との対比で、
アーレントは、この物語でたくさんの「友達」を失います。
でも、メアリーやシャルロットといった、「選ぶべき友達」の厳選には成功しました。
そして失った「友達」は、しかし「論敵」にはならない、取るに足らない存在に成り下がっただけです。
哲学者の姿勢とは?考えることで人間が強くなること
アーレントは、「証言」や「事実」に基づいて、記事を執筆しています。
つまり、その「証言」や「事実」から崩さない限り、アーレントの主張も崩すことはできません。
という、アーレントの声が聞こえてきそうです。
でも考えればわかるということは、考えなければわからないということです。
だから「世論」の正体が、なんにも考えずに、「周りの反応」とか「流行」とかに流されているバカの集まりなら、
一方で、「哲学」とは、「本当のこと」を追求する学問です。
「本当のこと」だったら、なんだって考えるし、喋ります。
“思考の風”が もたらすのは
知識ではありません
善悪を区別する能力であり
美醜を見分ける力です
少なくともアーレントは、「本当のこと」をいうことが、「善」だと考えています。
そして、「本当のこと」をいうのは、「美しい」。
だから、自分や自分の仲間たちに不都合な真実でも、それが「本当のこと」なら話すし書きます。
偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。もっとも、こんなことはかならずしも日本に限られたことではなかったし、また現代にのみ生じた現象ともいえない。それは古今東西の歴史書をひもとけばすぐわかることである。さればといって、それは過去のことだと安心してはおれない。つまり、そのような先例は、将来も同様な事象が起こり得るということを示唆しているとも受けとれるからである。いな、いな、もうすでに、現実の問題として現われ始めているのではないか。
ソース:『日本のあけぼの ―建国と紀元をめぐって』 – 編:三笠宮崇仁親王、光文社(1959年)
「本当のこと」から逃げていると、歴史修正主義者のようなバカになるだけです。
そして、「歴史修正」の指摘も、
といって、封じようとするのでしょう。
しかし、そうした歴史修正もレッテル貼りも、アーレントの姿勢を崩すことには失敗しました。
- 「愛」
- 「魂」
- 「和」
- 「全体」
- 「空気」
- 「同調圧力」
↑こんな貧弱な虚仮威しにビビって引っ込めるほど、「本当のこと」は弱くありません。
そして、「本当のこと」を明らかにする「思考」も、弱くありません。
だからアーレントは、「考えることで 人間が強くなること」を望んだんだし、
- 「本当のこと」を考える思考力
- 「本当のこと」を認める理解力
- 「本当のこと」を伝える発信力
この第3段階までがアーレントの哲学であり、まずは①「考える」ことで、アーレントのように強くなれるのです。
まとめ:凡人こそ思考と行動と努力を続けるべき理由
- 映画『ハンナ・アーレント』は、実在した女性哲学者にして、ドイツ系ユダヤ人の物語
- アーレントとアイヒマン裁判で、「友達と家族」「全体主義者」「悪の凡庸さ」を描く
- アーレントの哲学的姿勢は、「考えること」と「本当のこと」で支えているから、強い
以上です。
以下総評!
評価: 5.0映画『ハンナ・アーレント』は、正論で大衆を叩きのめしてしまったエリートの物語です。
・「本当のこと」
・教え子のアーレントに手を出す
・まだ学生のアーレントと逢い引きをしたり、股間に顔をうずめたりして甘える
・お互い晩年に再会したとき、クサい口説き文句や詩を引用したりして、よりを戻そうとする
・いろいろ弁明しながら、「私は無自覚で夢見がちな子供だった」とかいって、また甘えだす
以上、映画『ハンナ・アーレント』に学ぶ「人間」の姿勢でした!
私が望むのは考えることで人間が強くなることです。安田尊@『考える人』を謳うブログ。こんにちは、前回の記事で、【映画感想】『ハンナ・アーレント』に学ぶ哲学者の姿勢! と、映画『ハンナ・アーレント』の感想記事をアップした安田尊です[…]