私は光の道を歩まねばならない(舞城王太郎『淵の王』)。
~宇多田ヒカル『光』の解釈~
- ソース1:宇多田ヒカル「光」Music Video(4K UPGRADE) – YouTube(Hikaru Utada公式) – 2024年12月29日閲覧。
- ソース2:宇多田ヒカル 光 歌詞 – 歌ネット – 2024年12月29日閲覧。
実際、宇多田ヒカルさんがどういうつもりで『光』を歌ったのかは知りませんが、そんなことはどうでもいいことです。
どういうつもりか、は認識の問題であり、実際になにが歌われているかは運命の問題です。
だから日本のことわざも、「嘘から出た実(まこと)」というんだし、嘘をつこうと認識していても真実を述べてしまうことがあるように、
まあ個人的には、宇多田ヒカルさんはわかってやっていると思いますが。
という感じで、本記事では宇多田ヒカル『光』の歌詞解釈を始めます。
では以下目次です。
「光」は「運命」に盲目的な人生を照らす
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
たった一人で
運命忘れて
生きてきたのに
突然の光の中、目が覚める
真夜中に
さて、まず上記の歌い出しを整理すると、真夜中に寝室のベッドとかで寝ていたらいきなり部屋の電気が点いて目が覚めたわけではありません。
その前段階で「忘れて」いた「運命」を反省しているとおり、ここでは「光」⇒「運命を照らす光」です。
だから「真夜中」も、「運命」に対する盲目的な暗闇であり、「運命忘れて生きてきた」「真夜中」という名の人生でしたが、
なぜかはわかりませんが、突然「運命を照らす光」を手に入れました。
これまで忘れていた運命が、思いだせるようになりました。
これまで見えなかった運命が、見えるようになりました。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
暗闇に光を撃て
だから「出口に立って」とは、運命を照らす光と盲目的な闇の境界線に立つということです。
「暗闇に光を撃て」は、「運命に光を当てよ」⇒「運命を見よ」⇒「盲目的な人生から脱却せよ」。
盲目的な人生の出口から、運命を悟る人生へと抜け出せと歌っています。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
願いを口にしたいだけさ
家族にも紹介するよ
きっとうまくいくよ
さて、最初の歌い出しが真夜中の寝室のベッド上の話ではなかったように、今度も恋愛だの結婚だの婚約だのという実生活上の話ではありません。
ここでいう「約束」とは、運命に光を当てた結果、「運命を自覚する」という生き方(使命・目標・未来)を背負ってしまうことです。
だからなにを「不安にさせる」って、これまで運命に対して盲目的に生きてきたのに、たとえるなら結婚願望なんか持たずに独身生活を謳歌してきたのに、
たしかに運命を照らす光は手に入れたけど、運命に光を当てるかどうかは自由であり、運命と結ばれるかどうかにはまだ迷いがあります。
だって別に、いまさら運命なんか見なくたって、盲目的な人生とやらでいいんじゃないの?
これまでだって、「運命忘れて生きてきたのに」、それで何不自由なく生きてこれたのに、
太陽の光に向かって羽ばたいて翼が燃え尽きて死んだイカロスの話とか聞いたことない?
真夜中に街灯や蛍光灯の光に吸い寄せられて力尽きて死んでいく虫とか見たことない?
そう盲目的な人生視点からは、未練がましい不安の声がささやかれますが、
- 「約束」……願い
- 「願い(約束)を口にしたい」……願い
そこで決意表明として、①②「願い(約束)を口にしたい」は二重の願いとなっており、①「約束」も願いであり②「口にしたい」も願いです。
次に②「願いを口にしたい」において、「家族にも紹介する」「きっとうまくいく」と、「願いを公言する」⇒「願いの実行」を選んでいます。
②「口にしたい(願い)」において、願いを実行に移す態度が表明されているのだから、①「約束(願い)」も果たされることが示唆されています。
「光」の正体と「一人」で「二人」の矛盾
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
ずっと二人で
どんな時だって
側にいるから
君という光が私を見つける
真夜中に
さて、初めの歌い出しが「どんな時だって」「たった一人で」だったことを思いだすと、明らかな矛盾が見受けられます。
今度は、「どんな時だって」「ずっと二人で」と歌われており、物理的な時空間に矛盾があります。
しかしもちろん、これまで実生活の話を無視してきたように、物理的な摩擦も無視するべきです。
- 「君」という光が
- 「私」を見つける
まず①②「二人」を表す①「君」②「私」ですが、そのうち①「君」は「君という光」です。
そして①「光」は「運命を照らす光」でした。
つまり①「運命を照らす光」は②「私を見つけ」て、①②「私の運命を照らす」わけですが、そんなことができるのは「一人」しか存在しません。
- 運命に盲目的な人生
- 運命に自覚的な人生
ここまで、ひとりの人生について、まず①「盲目的な人生」が歩めることを説明しました。
そして、運命を認識することによって、②「自覚的な人生」が歩めることも示しました。
ひとりの人生に、ふたつの人生、①②「私」にはふたりの人生のうちどちらか一方を歩む可能性が秘められており、
私の認識能力が目覚めた暁には、私は私の運命と可能性を悟り、「暗闇に光を撃て」る。
盲目的な人生に認識の光を当てて反省し、「出口に立って」、自覚的な人生へと移れる。
ここでもし、通常の恋愛ソングのように物理的にふたりの人間がいて、運命の相手のことを「君という光」と呼んでいるとしたら、
という謎の疑問が発生するので、やはり通常の恋愛ソングではありえません。
だから物理的には、あるいは盲目的な私の主観では、「どんな時だって」「たった一人で」……。
しかし認識の光を察知し、「君という光(自覚的な私)が私(盲目的な私)を見つける」=「私という光が君を見つける」=「私を見つけると同時に見つけられる私」=「認識する私と認識される私」の、
- 主観的認識
- 客観的認識
歌詞が「どんな時だって」を繰り返し、「側にいるから」と続くのは、①②「主観と客観は必ず同時に存在する」からです。
主観と客観の関係がわかりにくい場合は、身体で覚える方法として、自分の目で自分の手を見ればわかります(自分の手で自分の頬を触るなどでも可)。
私の目が私の手を見るとき(主観的には私が私を認識するとき)、必ず私の手は私の目に見られています(客観的には私は私に認識されています)。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
運命の仮面をとれ
さてしかし、次に新たな問題が発生しており、「うるさい通り」もまた実生活上の繁華街や道路ではありません。
「うるさい」の対比として、最初に運命を思いだしたときには「静かに出口に立って」と歌われています。
覚醒当初は静かな「二人」だったのに、いまや認識能力が暴走し、「二人」以上に雑多な自分の可能性(人生の道)をも認識してしまい、
そして「静かに出口に立って」「暗闇に光を撃て」と命じていたのが、運命に自覚的な私だとすれば……。
「うるさい通りに入って」「運命の仮面を取れ」と命じているのは、運命に盲目的な私です。
だから盲目的な私は自覚的な私に抵抗して謳います、ほら運命なんてめんどくさいだけでしょ、素顔の私は運命なんか忘れて生きてきたでしょ、
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
今日はおいしい物を食べようよ
未来はずっと先だよ
僕にも分からない
盲目的な人生にとって、存在するのは「今日(現在)」だけです。
「今日」「おいしい物を食べ」て、犬や猫みたいに目先の欲求を満たして生きられれば満足です。
だって「運命」を捨てるなら、「約束」を果たさないなら、運命のために生きたり約束を果たしたりするために必要な「未来」だの「先」だのいう認識も不要でしょ?
- 「私」……運命に盲目的な私
- 「君」……運命に自覚的な私
- 「僕」……運命に混乱中の私
③「僕」という新たな視点は、認識能力の暴走を代表する視点です。
だから①「私」になるべきか②「君」になるべきか迷子の子羊です。
①②③「私たち」は、己の内部で迷いながら議論をかわしています。
「認識の光」で「運命」に自覚的な人生へ
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
もっと良くして
私たちは、「私」+「君」+「僕」=「完成(全認識の統合)」を目指しますが、もちろん盲目的な視点は抵抗をやめません。
目的なき人生は、結論なき議論なのです。
盲目的な人生においては、現在だけが存在すればいいので、延々と「もっと良く」「もっと良く」と議論(現在)の引き延ばし工作を図ります。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
いけばいいから
しかし、私たちの認識能力は冷静に出口を探せるはずです。
私たちを照らす認識の光、その光に目が慣れさえすれば、多すぎる選択肢を前にしても目眩は起こしません。
大丈夫、どんなに目移りしても、ひとつずつ片付ければいいのです。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
映し出す
そして私たちは、「光」に見つけられ、また同時に「光」を見つけます。
「私のシナリオ」は「私の人生」です。
「私の人生」と「認識の光」が絡み合えば、「運命」を見据えることができます。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
目前の明日の事も
テレビ消して
私の事だけを見ていてよ
私は認識の光に照らされ、もはや存在するのは盲目的な現在だけではなく、「明日(未来)」のことも「目前(現在)」と同じように捉えることができます。
「テレビ」は、もうおわかりだと思いますが、家電製品の話ではありません。
「テレビ」が映し出すのは、「うるさい」光と音声、つまりチャンネル(認識能力の拡大によってもたらされた余計な選択肢)であり、
テレビを消すということは、「君という光」⇒「運命に自覚的な人生」以外の選択肢を消すということです。
そうして「私」と「君という光」は見つめ合い、「運命に自覚的な人生」に統一されて完成間近です。
したがって、「私」=「君」であり、「私の事だけを見ていてよ」=「君という光だけを見ていたい」という願いです。
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
信じきれないね
そんな時だって
側にいるから
君という光が私を見つける
真夜中に
それでも盲目的な人生の視点は、最後まで抵抗し、本当に運命に目覚めても良いのかと二度寝を誘ってきます。
しかしそんな時でも(どんな時でも)、必ず「光(運命)」は私に寄り添っています。
どんなに盲目的でも、疑心暗鬼でも、必ず「光」は私を見つけられるし私が見つけられるのだから結論は、
~宇多田ヒカル『光』の歌詞~
目前の明日の事も
テレビ消して
私の事だけを見ていてよ
まとめ:人生の「盲目的な側面」について
- 宇多田ヒカル『光』は、「運命」に盲目的な人生から自覚的な人生へと目覚める歌
- 盲目的な視点が「一人(主観)」、自覚的な視点で「二人(主観と客観)」になる
- 「突然」「目が覚める」のは、認識の光は悟りを開くようにしか直観できないから
以上です。
というわけで宇多田ヒカル『光』は、運命に盲目的な人生から自覚的な人生へと目覚めよ、と歌い上げています。
しかし私たちの大半は盲目的に生きており、怠惰にも自堕落な生活を送っており、だからアラン・ウォーカーも、
~アラン・ウォーカー『Darkside』の歌詞~
Give in to the dark side(盲目的に死のう)
Let go of the light(光を捨てよう)
Fall into the dark side(盲目的に生きよう)
- ソース1:Alan Walker – Darkside (feat. Au/Ra and Tomine Harket) – YouTube(Alan Walker公式) – 2024年12月29日閲覧。
- ソース2:Alan Walker – Darkside Lyrics – Genius Lyrics – 2024年12月29日閲覧。
『Darkside』において、「盲目的な側面」の勝利を高らかに宣言しています。
次回は、宇多田ヒカル『光』を踏まえた上で、アラン・ウォーカー『Darkside』の解釈に移ります。
以上、宇多田ヒカル『光』の歌詞解釈でした!
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