ブログ記事について、よく、
みたいに甘い言葉をささやいてくるゴミがいますが、罠です。
私はたったいま当ブログで72記事+作業中に投稿した3記事のリライトを終えました。
それで思ったんですが、ブログ記事は最初から完成度100%を目指したほうが絶対に楽です。
では理由を述べます。
その前に愚痴ります。
リライトだるすぎ!
だるいんじゃボケ!
昔の私、不安定!
情緒も不安定!
まあそれはいまもだけど、昔はスタイルも定まってない!
たとえばいまだったら基本的に句点だったり疑問符だったり感嘆符だったりを打ったら改行ってスタイルで執筆しているけど、昔の私、改行の基準が謎!
じゃあいまのスタイルに合わせて修正しようと思っても、昔の私は昔の私なりのバランス感覚に基づいて文章を生成しているから、致命的にいまの私のスタイルと合わない!
だから昔の私のスタイルを汲み取りつつ完成度を上げる改行位置を探るけど、
だいたい最適な改行の位置を探るには文体だとか文章のリズムを把握するために記事の読み直しが発生するけど、私は私が書いたものなんか読みたくない!
だってつまんないし!
内容知ってるし!
自分で書いて内容もまだギリギリうろ覚えの文章を再読しなきゃいけない理由はなに?
って自分でも思ったけど、だって昔の私、イラストの挿入甘すぎだし、いま作成中のこの記事なんかすでにいらすとやさんのイラストを17点も使用していて、21点目から有償になるからあとのことを考えて使い回しを駆使して使用をセーブしているぐらいなのに、昔の私はひとつの記事に対してイラストを1点しか使用していない記事とかを投稿していたんだけど、なんでそれでいいと思ったの??
たとえばそのたった1点のイラストが記事のなかで一際重要な文言だったり場面だったりをハイライトさせるために用いられているんだとしたらまだわかるよ、でもクソどうでもいい場面を表していたんだけどどういうこと?
私は考えたよ、私は結構ひねくれているから、
って考えたけど、どう考えても深読みしても記憶を手繰ってもなんの意図もメッセージもなくただ頭空っぽでイラストをぶち込んだだけだったよ!
ちなみに下記の記事中盤に挿入されている「傘でゴルフの練習をする人のイラスト」ね。
【クソな老害】年上だから何?敬う理由も必要もない
はあ……(クソデカため息)。
で、私はこの老害を青臭く未熟なバナナでも囓るようにディスった記事にイラストを申し訳程度追加して、それを皮切りにほかの記事でもイラストを追加しだしてリライト前はたしか「いらすとや20」のタグに該当する記事は10記事にも満たなかったはずなのにいまでは30記事です。
イラストが増えたよ!!
やったね!
おかげさまで一日で終わらせる予定だったリライト作業は二週間以上かかりましたとさ、ファック!!
私は妥協していないという恐ろしい事実
さて、愚痴ってスッキリしたので、冷静に私のリライト作業を振り返ってみます。
まず私が70記事余りに施した主な作業は、
- タイトルの修正
- 記事本文の修正
- イラストの修正
- カテゴリー再編
- タグの増設付与
- ページのAMP化
です。
う~ん……こうして並べてみても、やはり一日ガチればいけそうな感じはありますね。
現実には二週間以上かかっており、その経験を有しているにも関わらず、いまでもなんだかいけそうな感じがします。
矛盾していますよね。
ではなぜいけそうな感じがあるのか?
それは私が、過去の記事作成において手抜きをしていないからです。
厳密には、まったく手を抜いていないわけではありません。
ただし、手を抜いているのは記事作成の前、題材やテーマ選びの段階であって、その段階では思いっきり手を抜いている記事が散見されますが、記事作成の段に入れば、ふざけるならふざける、雑に書くなら雑に書く、手を抜くなら手を抜くで、きっちり仕上げてきたつもりです。
つまり、ちょっとややこしいですが、「手抜き記事」にしても、ちゃんと手を抜かずに手を抜いた記事を作成してきたつもりです。
「手を抜いた記事」として完成度の高い記事を投稿してきたつもりです。
ですから私の認識では、リライトによって「手抜き記事」に手を入れる必要性は特に感じておらず、それ以外の手を抜いていない記事についても当然、大幅な修正はないと考えていました。
が、それが大誤算でした。
全然ダメ!!
たしかに過去の私は記事作成において手を抜いていません。
しかし、現在の私からすれば手を抜いているようにしか見えませんでした。
そこで手を入れる必要性が生じた結果、比例して作業時間も延びていった、というわけです。
そして私は妥協していないのにこのざまでした。
じゃあもし妥協していたら……?
私が妥協していたらという恐ろしい仮定
もしも過去の私が、記事作成においても手を抜いていたらどうなっていたのか?
初心者の自分が記事の完成度で妥協していたら、どうなっていたのか?
とはいいますが、初心者の自分でも自覚できるぐらい完成度が低い記事を投稿して、自ら全世界に晒し上げたあと、その未熟で未熟で恥の多い記事を、ちょっぴり成熟した自分が見直したとき……。
控えめにいって死にたくなりませんか?
深夜に魔が差して発信してしまったメールやSNSのメッセージより恥ずかしくないですか?
なぜなら文章には、長くなればなるほど綻びが出やすくなるという性質があるからです。
たとえばツイッターで140文字書くのと、ブログで1400文字書くのとでは、確実に後者のほうが支離滅裂になりがちで、アホっぽい文章の出現率も上がります。
その証拠に、ツイッターでもたまに、
とかいって画像で長文をアップしている方がいますが、だいたい支離滅裂ですよね。
そういうことです。
そしてブログの場合はそんなやばい長文が基本になるという、じつはとってもやばい媒体なのです。
そんなやばいブログで完成度がやばい記事を投稿するって、やばくないですか?
しかしこれがある程度成熟しきった中級者以上なら、主観的に見て完成度が低くても客観的に見て完成度が高かったりするので問題はないのでしょうが(だから大抵「完成度が低くてもいいよ~」とかいって罠に嵌めてくるゴミどもは自分たちだけ安全圏の中級者以上でしょう)、初心者で完成度が低いのはマジでやばたんリライトつらたんなのでやめましょう。
てか支離滅裂な長文になってきたのでまとめますね。
まとめ
ああ、なんて目に優しく、耳心地がいい言葉たちなんでしょう。
ほっぺたが落ちそうです。
あのさ、
なのに成長前からすでに百点を目指していない雑魚の最高到達点って、たかが知れてるんじゃねーの?
どうなの、そのへん?
弱者に寄り添う言葉は人気だけどさ、なんで人気なのかって、
後悔しない?
それで後悔しないならいいけど、いざ弱者に甘んじていた自分を悔いて心を入れ替えることにして過去の自分の言動をリライトしようとしたとき、弱者であり愚者でもあった自分が手まで抜いていたらなおさら黒歴史すぎて耐えられなくなって投げだしたりリセットしたくならない?
しかもその黒歴史って、セルフ開示していたなら一生他人から指摘され続ける恐れがあるからね。
そのダメージを軽減するには、いつだって百点を目指してやるしかないんだよ。
たしかにそれはツラくて険しい道だけど、でもどっち道、ずっと弱者でいるのもツラいからツラいのは同じだよね。
さてじゃあツラいのは同じで、
- 弱者のままでいる道
- 強者へと続く道のり
後悔しないのはどっちでしょう?
DIS IS THE ANSWER.