自分が過去に執筆したゴミみたいな文章を読んで、
と、ビックリしたり、自己嫌悪したりすることがよくありますよね。
もちろん、ドクズの可能性はあります。
が、ドクズではない可能性もあります。
というわけで本記事では、私たちが駄文を生産する理由と、その対策を述べます。
なおここまでは、わざとゴミみたいな文章を書いています(以後の例で使うため)。
ゴミみたいな文章とは?「作者と読者のすれ違いを生む文章」
- ゴミみたいな文章
- 駄文
- もしかして私は、ドクズなのでは?
- 自分の悪辣さにビックリしたり、自己嫌悪したりすることがよくありますよね
- もちろん、ドクズの可能性はあります
- が、ドクズではない可能性もあります
- 自分の文章と、他人の文章とでは、読んでいる部分が違うからです
さて、冷静に考えるとこれらの文章は、ここまでの文脈では意味不明です。
もしもすらすらと読めた読者がいるなら、それは読者が超能力で辻褄を合わせてくれたからにほかなりません。
私は、どういう文章を指して「ゴミみたいな文章」と呼んでいるのか、ここまで明らかにしていません。
それなのに、「ゴミみたいな文章」をテーマに話を進めていく……。
- 作者視点……「ゴミみたいな文章(作者と読者のすれ違いを生む文章)」
- 読者視点……「ゴミみたいな文章(???????????????)」
作者は、括弧内にある自分の考えを読んでおり、意味が通ると思い込んで話を進める。
読者は、括弧内にある作者の考えが読めないため、意味不明なまま話が進行していく。
- もしかして私は、(不公平な評価をする)ドクズなのでは?
- 自分の悪辣さにビックリしたり、自己嫌悪したりすることが(日常的に読み書きをする人間なら)よくありますよね
このように明文化してあれば、意味不明だった「ドクズ」の意味も伝わります。
また、読者層を限定することで、「よくありますよね」といわれて同意できない人間を極力排除できます。
- もちろん、(自己認識や自己評価が正しく)ドクズの可能性はあります
- が、(問題は性格や人格に起因せず)ドクズではない可能性もあります
基本的に、この手の「あらゆる可能性を考慮した文章」は、存在自体がゴミです。
例外として、括弧内のような補足が明文化してある場合、前後の文脈をスムーズに繋げる役割を果たします。
- Aの可能性はある
- Bの可能性もある
なんてことは、なんにでもいえますよね(例:いえるかもしれないし、いえないかもしれない……)。
つまり、書く意味がなければ、書く必要もないゴミです(ポエムを書きたい気分のとき以外は)。
- 自分の文章(作者の頭のなかまで読める)と、他人の文章(作者の頭のなかまでは読めない)とでは、読んでいる部分が違うからです
まあこれでもまだ若干の意味不明さはありますが、この例では(括弧内で作者の考えを示すという)縛りプレイの分だけ、わかりにくくなっています。
通常の文章では、
- 自分が作者のとき……作者が書いていない思考部分まで読めるため、「文章+思考」を評価してしまう
- 自分が読者のとき……作者が書いていない思考部分は読めないため、純粋に「文章」だけを評価できる
……などと書けば問題ありません。
問題ありません……よね?(私はいま、私の文章を思考込みで評価しているため、問題があるかどうかがわかりません……だれか助けて!!)
文章のチェック方法は?他人に読んでもらうのが一番だけど?
- 家族
- 友人
- 愛人
など、予め本命の読者以外に自分の文章を送りつけて、ゴミみたいな文章になっていないかチェックしてもらいましょう。
ちなみに、こんなふうに主張をコロコロ転がすと、読者の混乱を招くとして駄文判定を食らいやすいので注意しましょう(私は面白いからやめないけど)(ドクズ)。
では、他力本願ルートを潰したところで、次の項目から自力救済に入ります。
自分で自分の駄文をチェックする方法は?客観的な評価方法!
- 自分が他人になる
- 自分が他人になる
- 自分が他人になる
ごめんなさい、私はもう病気みたいで、こういうゴミみたいな文章を面白がって書くのがやめられません。
私みたいに手遅れになる人がひとりでも減ることを願って、以下に解説を記します。
文章は寝かせよう!過去の自分が書いた文章は他人の文章
~自分で自分の駄文を推敲する方法その①~
文章を書き上げたら、しばらく寝かせて待ちましょう。
時が過ぎ、自分の細胞が入れ替わり、記憶が失われるのを待つのです。
こうして、3日前の自分は、他人であることが判明しました。
これは昔の、男女差別が根強い時代(三国志演義)の名言ですが、
という言葉もあるとおりです。
人間は、3日で変われます。
つまり、
以下はおまけとして、アメリカを代表する小説家、アーネスト・ヘミングウェイ(代表作『老人と海』)の逸話です。
ヘミングウェイの旅行鞄は、よく知られた話かも知れない。ヘミングウェイは原稿を書きあげると、トランクに入れて、銀行の貸金庫に預けた。しばらく時間をおいて取り出し、手を入れてから発表するかどうかを判断した、という。かれは推敲型の作家だった。
ソース:波 長谷川郁夫「小川国夫のヘミングウェイ時代」 – 新潮社の電子書籍 – 2022年4月17日閲覧。
読者視点で考えよう!私たちは作者視点で考えすぎている
~自分で自分の駄文を推敲する方法その②~
- 作者の気持ち
- 作者の意図
- 作者の伝えたいこと
私たちは、まるで王様にひれ伏す奴隷のように、「作者視点」で文章を読むように調教されてきました。
一方で、
といった、「読者視点」には乏しい。
特に、自分が文章を作成する側ともなれば、もはや自分が王であるといわんばかりに「読者視点」なんて消し飛んでいる場合も多いでしょう。
そして、王の圧政に苦しむ民のように、読者は苦しむ。
ゴミを削減するためには、一旦「作者視点」を殺して、「読者視点」を持つべきです。
その上で、自分の文章を読み返し、
自己批判をしよう!自分に厳しい読者になりきって客観視
- 現実世界で日常生活を送る私
- ブログでこの文章を書いた私
- 現実世界で仕事相手と話す私
- ネットでゲーム友達と遊ぶ私
上記の「私」は、言葉遣いから性格まで、それぞれが別の人格だといっても過言ではありません。
家族と接するときの自分と、セフレと接するときの自分、同じ人格でしょうか?
ご覧のとおり、平気で「ゴミクズ」みたいな悪口を使います。
「セフレ」みたいな、下品な例え話もしまくっています。
表現の自由最( `_ゝ´)フォオオオオオオオオオ!!!!
- 優しい
- 良い人
- 怒ったり、下品な会話に加わったりしているところを見たことがない
などと、好感触を得ているかもしれません(そしてそのうち、「あんなに良い人がどうして……」と、近所の人がマスコミに好き勝手喋るような凶悪事件を起こすかもしれません)。
このように、私たちは日常的に、「人格」を使い分けています。
以下は、日本を代表する漫画家、冨樫義博氏(代表作『HUNTER×HUNTER』)の逸話です。
私の頭の中には、田所さんと今井さん(どちらも仮名)という二人の人物がいる。田所さんは絵を描くのが専門で今井さんは企画や話(ストーリー)を考える。田所さんは自尊心が強く根性なし。今井さんは軽薄で節操がない。たまに二人が仕事の事で口論をすることがある。ひどい時には私も加わって大論争となるが、第三者が見ると、不気味な独り言なのだ。宿主の私としては絶対他人には見せられない光景である。
ソース:冨樫義博『レベルE』第3巻(カバー折り返しの作者コメント欄)
まとめ:なぜ読者の気持ちを考えて書かなければいけないのか
- 「ゴミみたいな文章」の定義は?「作者と読者のすれ違いを生む文章」
- 「ゴミみたいな文章」の原因は?作者が自分の脳内で読み書きしている
- 「ゴミみたいな文章」の対策は?作者が他人になりきって自己批判する
以上です。
- 自己中タイプの書き手……自分の書きたいものを書く作者
- ご奉仕タイプの書き手……読者に読まれるものを書く作者
①「自己中タイプ」の書き手は、ぶっちゃけ、読者とのすれ違いなんてどうでもいいと思っています。
でもすでに述べたとおり、
自己中タイプの私が、ここまで読者ファーストの理論を披露できているのがその証拠です(実践しているかどうかは別にして)。
つまりこういうことです。
- 純粋な読者……低レベルな(恥ずかしい)文章を読んでも、他人の恥なので、感情としての恥ずかしさは感じない
- 読者兼作者……低レベルな(恥ずかしい)文章を読んだとき、読者と作者両方の性質を併せ持つため、地獄を見る
以上、本当に自己中なら、可愛い可愛い(未来の)自分に恥をかかせるような真似は慎んだほうが賢明です(でもゴミみたいな文章書くのやめれないんだけどwww)。