1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365(著:デイヴィッド・S・キダー&ノア・D・オッペンハイム、訳:小林朋則、文響社2018年)を読みました。
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こうして私は休日を犠牲にし、上記7分野を1日で修め、教養人に上り詰めました(ちなみに10回ぐらい寝落ちした)。
こんにちは、教養人です。
しかし、懐疑論者の方々はこう思うでしょう。
というわけで本記事では、教養人と化した私が、本書から3日分の教養を紹介します。
まずは97日目、「懐疑論」から。
本書には「教養じゃなくて雑学」的な批判もありますが、これが教養じゃないって、どうしていえるんでしょうか?
哲学「懐疑論」で本書のアンチレビューに反論する
~97日目 | 哲学「懐疑論」~
あなたはコンピューター・シミュレーションの中で生きているのではありませんか? どうして違うと分かるのです? 確かにあなたは、本物の紙でできた本物の本を持っているかもしれません。しかし、それはコンピューターがあなたの脳に、本物の紙でできた本物の本を持っているように思えと命じているからではないと、どうして分かるのです? この世界についてのあなたの知識と経験が、どれも信じるに値するものだと、どうして分かるのですか?
こうしたジレンマを、外界についての懐疑論という。一般に懐疑論とは、厳密に証明されていない知識体系に対して私たちが抱いている確信を覆すために行われる哲学的議論または主張のことを指す。懐疑論者とは、懐疑論的な議論を使って私たちの常識を覆そうとする人のことだ。
懐疑論にはこのほかに、「他者には思考や感情、知識があると、どうして分かるのか」というものもある。確かに他者は、思考しているかのように振る舞う。それに、聞けば必ず、私は知識を持っていますと答える。しかし、彼らが真実を語っているとどうして分かるのか? 他者も思考力を持った存在だという主張を裏づけるような証拠は、どれも彼らがじつは非常に精巧にプログラムされたロボットであることを示していると解釈し直せるものばかりだ。
豆知識↓
これまでに多くの哲学者が、外界や他者の心についての懐疑論を解決したと主張してきた。その一方で、懐疑論に屈した哲学者もいる。
- ルネ・デカルト(1596~1650)は、自著『省察』で、最も有名で後世に最も大きな影響を残した懐疑論の主張を書いた。その中でデカルトは、自分が非常に強力だが悪意に満ちた悪魔によって創造され、その悪魔から徹底的にだまされている可能性を検討している。デカルトは読者にこう問いかける。「私が、そのような悪魔にだまされていないと、私にどうして分かる?」
- イマヌエル・カント(1724~1804)は、懐疑論という問題を哲学がまだ解決していないことを、たいへんな「不名誉」だと見なしていたが、マルティン・ハイデッガー(1889~1976)は、不名誉なのは懐疑論という問題を解決していないことではなく、解決しなくてはならないと哲学者が考えていることだと書いている。
さて、まずは97日目、哲学カテゴリ「懐疑論」です。
一言でまとめると、
あらゆる知識や認識や見識に対して、別の解釈で問いかけるのが懐疑論です(つまり、無限にループするので1回しか言及しませんが、これが懐疑論かどうかも疑うのが懐疑論です)。
たとえば、「知識」とはなにか、「正しい」とはなにか、そして「教養」とはなにか?
本書のAmazonトップレビューには、以下のような批判が掲載されています(2022年9月時点)。
評価: 1.0Reviewed in Japan on October 28, 2018
「教養」というものを理解しないで本を作ると、こうなってしまう。
出版社といえば昔は教養人がいたものだが、教養のない人が今の出版界を構成しているのか。
国語辞書を引くのはオススメしません、なぜならその辞書が正しいという保証がないからです。
人は、ある幅広い知識については、「博識」とか「博覧強記」とかいって褒め称えます。
そして、別のある幅広い知識については、「雑学」と見下してバカにします。
残念ながら、Amazonのトップレビューには、なにも説明が記載されていません。
Amazonの低評価レビューを見ていくと、同様の「これは教養ではない」論者の人たちが大量発生しています。
そして、だれひとりとして、「教養とはなにか」を具体的に説明していません。
評価: 1.0Reviewed in Japan on November 11, 2018
「世界」でもないし「教養」でもない。アカデミックを装った、ただの雑学本。しかしタイトルのつけ方がうまいですよね。
評価: 1.0Reviewed in Japan on October 20, 2018
そもそも1日1ページ読んだだけで教養は身に付かないでしょう。まずは教養と雑学の違いを知るところから始めないと。
評価: 1.0Reviewed in Japan on January 9, 2021
喜んで読む人がいるのだからこんな本があってもいと思う。ただ、これだけで教養がつくと読者にアピールしている点は罪深い。教養は雑学本1冊で身につくものではない。この売り文句を信じて喜ぶかどうかでその人の教養度を知ることができる本。
こうして「役に立った」1桁~4桁のレビューを参照しても、上から下まで「私は本当の教養を知っているぞ!」アピールが激しいだけで、正直いってクソほどの役にも立ちません。
それでも、1000人以上が「役に立った」というレビューを頑張って読解すると、たった1冊の本から出版界全体を語っちゃうのが「教養」…ってコト!?
私の認識では、「木を見て森を見ず」って、それこそ無教養なバカがやる行為なんですが……、
でも待って、大衆はだいたい愚かなので、「役に立った」数なんて参考にしないほうがいいかもしれません(たとえばYouTubeだって、素人の解説系動画ばかりが伸びて、大学教授のガチ講義動画は伸びないものです)。
そこで、「役に立った」4人のレビューも見てみましょう。
「罪深いリトマス本」、「雑学本」、「教養度」……いいですね~、教養にあふれている感じがします。
- 教養度Lv1
- 教養度Lv2
- 教養度Lv3
「教養」とは、このように数値化できるということでしょうか?
たしかに教養は、知識や経験値と同じで、「高さ」とか「深さ」とかで表すことができそうです。
でも、教養に度合いがあるんだとすれば、
すっごい無知な人間や、無教養な人間が、本書を読んでたったひとつでも一般教養を身につけたなら。
その時点で、「教養」は身についていますよね。
別に本書は、「1日1ページ、読むだけで教養度Lv99が身につく」とは書いていないわけだし……、
あとこのレビュー、「この売り文句を信じて喜ぶかどうかでその人の教養度を知ることができる本」って書いてありますけど……。
ではその人が、本当にどれくらい「売り文句を信じたのか」「喜んだのか」は、どうすればわかるのでしょうか?
それらが正確に計測できないなら、その人の「教養度」だって、知ることができないんじゃありませんか?
懐疑論を修めていれば、こんなふうに安易に「教養」がどうたら語って恥を晒すことはなかったでしょう。
懐疑論者は、持論さえも疑って、自分に自分で反論を入れることが得意な人種だからです。
ただし、懐疑論は、キリのいいところで(無限にループしないように)やめるバランス感覚がなければ病みます。ご注意を。
文学『選ばれなかった道』古典の詩に隠された皮肉
~184日目 | 文学『選ばれなかった道』~
残念だが両方の道を進むことはできない。
ひとりで旅する私はしばらく立ち止まり、
一方の道をできるだけ奥まで見ると、
道は先で折れて草むらの中に消えていた。
こちらも劣らず美しいし、
むしろよさそうに思えたのは、
草が生い茂っていて踏み荒らされていなかったからだ。
もっとも、それを言うなら、ここを通った人々によって
実際にはどちらもほとんど同じように踏み荒らされていたのだが。
まだ踏まれず黒ずんでいない落ち葉に埋もれていた。
ああ、私は最初の道を、別の日のために取っておくことにした!
しかし、道が先へ先へと続いていることは分かっていたから、
ここに戻ってくることは二度とないだろうと思っていた。
今から何年、何十年先になっても言い続けるつもりだ。
森の中で道がふたつに分かれており、私は――
私は踏みならされていない方の道を選んだ。
そしてそれが、決定的な違いを生んだ。
アメリカの詩の中で、ロバート・フロストの『選ばれなかった道』(1916年)ほど何度も引用されながら、これほど広く誤解されている詩は存在しないだろう。誰もがこの詩を、自由意思を重んじる語り手の態度を高らかに歌い上げ、型にはまらず「踏みならされていない方の」道を進めと鼓舞する内容だと思っている。しかし、じっくりと読んでみると、この詩にはフロストの代名詞でもある、アイロニーを含んだ諦観に満ちていることが分かる。
この詩で見過ごされているのは、どちらの道を選ぶかを語り手がまったくの気まぐれで決めていることだ。ふたつの道を選ぶ際の描写で、語り手は、どちらの道も基本的に同じであることを繰り返し強調している。一方の道はもう一方に「劣らず美しい」のであり、語り手は両者を区別したいと思っているが、「ここを通った人々によって/実際にはどちらもほとんど同じように踏み荒らされていた」ことを認めている。結局は気まぐれで選ぶのである。
最後のスタンザに、フロストは皮肉なユーモアを盛り込んでいる。語り手は「今から何年、何十年先に」、老人になったとき、この物語を「ため息まじりに」繰り返し語り、自分は勇敢にも、人と違った道、つまり「踏みならされていない方の」道を選んだと主張するのだろう。しかし、それは誤りだ。その直前に語り手は、気まぐれで選んだと言っている。そもそも「踏みならされていない方の」道などなく、どちらの道も「同じように続いていて、/落ち葉には踏みつぶされて黒くなった跡はひとつもなかった」からだ。フロストは、人間には自分をよく見せようと思い、人生の不確かさを体裁よくごまかし、人生とは善し悪しを理解した上で意識的に選ぶ選択の連続だと見なすことで自らを慰めようとする傾向があることを見抜いていた。しかし、彼が結局指摘しているのは、現実の私たちは人生でどちらの道がよいのかを知ることはできず、この詩の語り手と同じように、当てずっぽうで道を選ぶことが多いということである。
さて、次は184日目、文学カテゴリ『選ばれなかった道』です。
一言でまとめると、
- 森の中で道がふたつに(AとBに)分かれていた
- 一方の道(A)は先で折れて草むらの中に消えていた
- もう一方(B)は草が生い茂っていて踏み荒らされていなかった
- 実際にはどちらも(AもBも)ほとんど同じように踏み荒らされていた
- どちらの道も(AもBも)同じように、まだ踏まれず黒ずんでいない落ち葉に埋もれていた
- 私は踏みならされていない方の道を選んだ(AとBどっちだよ?)
つまりこの詩は、ボケ老人が自らの武勇伝を語ろうとして、支離滅裂になる様子を皮肉っているそうです。
老人は「踏みならされていない方の道」⇒「人と違った道」を選んだというけど、そんな判断基準はなかったと。
またこの詩は、途中で語り手の時計が進む構成(回想~未来予想)になっています。
~①当時、分かれ道を一目見た感想~
~②少しあとで冷静に確認した事実~
~③年老いて曖昧になっていく記憶~
~④ボケ老人になってからの武勇伝~
語り手が常にボケていない限りは、上記4段階で時間軸が進行しています。
そして、一番信頼できる時間軸は、②「実際にはどちらもほとんど同じように踏み荒らされていたのだが」です(「実際には」と、事実確認に言及しているのはこの段階だけ)。
ほかの段階は、①「思えた」や③「あの朝」など、不正確さや時間の著しい経過がうかがえます。
とはいえ、詩自体が解釈の必要な表現方法で、さらにその詩および解釈可能性込みの翻訳となると正確さを求めるのは酷でしょう。
というわけで、それなりに(全体の文意に影響しない範囲で)正確に翻訳されているとして、こうした皮肉的な詩だそうです。
しかしそんな皮肉を読み取れず、存在しない武勇伝「私は踏みならされていない方の道を選んだ」ばかりが注目を浴びて賞賛されるという、二重の意味で皮肉な詩になっていることが指摘されています。
私は正直、全然知りませんでした。
試しにググってみると、2020年の映画『選ばなかったみち』関連で、検索結果が埋め尽くされていました(原題『The Roads Not Taken』。ロバート・フロストの詩は『The Road Not Taken』)。
つまりアメリカでは有名でも、日本ではあんまり知られていないこの詩、
特にアメリカ人や帰国子女と話していて、ふとしたときに『選ばれなかった道』を引き合いに出して理解を共有すれば、「日本人なのに『選ばれなかった道』の話ができるのか……」と一目置かれること請け合いです。
それは私たちだって、
と、思うのと同じです。
そうした教養マウント合戦を抜きにしても、
人間は、自分の選択に意味を求めるということ。
人間は、自分の記憶を書き換えるということ。
人間は、自分に都合の良い嘘を、「何年、何十年先になっても言い続けるつもり」のモンスターになりうるということ……。
たった一編の詩で教養なんて身につかないというなら、何遍の詩を学べば教養が身についたことになるのか。
この世のすべての古典を修めなければ教養人とはいえない、といって全人類をバカにすることは可能ですが。
私はそれよりは、たった一編の詩からでも教養は身につくと主張する道を選びます。
まとめ:後編「出版後のニュースにも対応」に続く
- 本書の「哲学」カテゴリを読めば、「教養とはなにか?」が考えられる!
- 本書の「文学」カテゴリを読めば、海外の古典から人生訓までが学べる!
以上です。
ごめんなさい、本当は③「本書が出版後のニュースにも対応していることこそ、教養本である証拠!」まであるんですが……。
あと、「まとめ:教養か雑学か?評価は自分の学習態度次第」もあるんですが、
以上、本記事は前編です。
後編と続編はこちら!↓
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