映画「102」は映画「101」の続編であり、ディズニーにおけるシリーズの源はアニメーション映画「101匹わんちゃん」です(大元の原作はドディー・スミスによる小説)。
前作の記事はこちら↓
【映画】「101」の感想と裏設定を解説!深読みは禁物です
まず混乱を避けるために「101匹わんちゃん」シリーズを整理しましょう。
- 原作の小説が著・ドディー・スミス「ダルメシアン 100と1ぴきの犬の物語」
- 「ダルメシアン 100と1ぴきの犬の物語」のアニメ映画化が「101匹わんちゃん」
- 「101匹わんちゃん」の実写版リメイク映画が「101」
- 「101」の続編が「102」
です。
したがって映画「102」も実写版になります。
さて、前回の記事でもお伝えしたように、私は、
という子ども時代のイメージを引きずっていました。
しかし大人となったいま、「101」を観て結構落ち込んでしまったので、では「102」はどうなのか、という好奇心で「102」の鑑賞に挑みました(あと本記事が当ブログ102記事目なので、ブログのネタにもしたかった)。
ただ愛くるしいダルメシアンや動物たちが躍動するさまは、やはり「101」のほうが楽しく、子ども向けであるといえるでしょう。
つまりお子様は前作「101」を、大人は今作「102」が当ブログのオススメということになります。
では以下でより具体的な理由や感想を述べましょう。
映画「102」の簡単なあらすじ
まず始めに、映画「102」はオリジナルストーリーです。
前作「101」はリメイク元「101匹わんちゃん」のストーリーを踏襲していましたが、「102」にストーリーの原作はありません。
したがって主要な登場人物や登場犬もほぼ変更されています。
前作に引き続き登場する主要なキャラクターは以下のとおりです。
- ディップスティック……ダルメシアンの成犬。前作では子犬だった♂
- クルエラ・デ・ビル……前作のラスボス。今作もラスボス♀
- アロンゾ……クルエラの執事。今作は前作よりも活躍する♂
さて、映画「102」のあらすじを簡単にご紹介しましょう。
前作で逮捕された「クルエラ・デ・ビル」ですが、パブロフ博士による行動制御療法なる治療を受けます。
ちなみに行動制御療法とは、
とのことで、要するにほぼ洗脳です。
そして洗脳を受けたクルエラは見事更生し、仮釈放を受けて慈善家となり、潰れかけの捨て犬ホーム「セカンド・チャンス」を買収して救済、動物愛護活動に従事します。
が、洗脳や催眠には効果を解く合図、「解除キー」が付きものであり、行動制御療法にも解除キーは存在しました。
悪女に舞い戻ったクルエラは、前作で未完成に終わった「ダルメシアンの毛皮コート」を完成させるべく動きだします。
改心時には支えていた捨て犬ホーム「セカンド・チャンス」も裏切り、さらに自身の保護観察官が飼っているダルメシアンの子犬たちに目をつけます。
その子犬たちの親こそが前作では子犬だった「ディップスティック」です。
ここで映画「102」オリジナルの主要人物と動物をご紹介しましょう。
- クロエ……本作における人間側の主人公。クルエラの保護観察官でディップスティックの飼い主♀
- オッドボール……本作における動物側の主人公。ディップスティックの子犬だが黒いブチがない♀
- ワドルスワーズ……自分のことを犬だと信じている鳥(ベニコンゴウインコ)。会話能力が高い♂
以上、ほかにも活躍する動物たちはいますが、特に重要なのは、
です。
最終的にはこのオッドボールとワドルスワーズのコンビが囚われた仲間たちを救出し、クルエラを再度破滅へと導きます。
なお表向きは主要キャラっぽい捨て犬ホーム「セカンド・チャンス」の青年や、その青年とクロエのラブストーリーなども展開されますが、そこは本筋ではないので省略します。
映画「102」の本筋を解説!
さて、では映画「102」の本筋とはなにかというお話ですが、まず基本的な流れとして、「101」も「102」も、
- クルエラが毛皮欲しさのあまり、悪事を計画する
- 動物たちが悪事を食い止め、クルエラを成敗する
という表向きのストーリーがあります。
が、前作「101」には、「残酷な現実」を映しだす裏設定がありました。
【映画】「101」の感想と裏設定を解説!深読みは禁物です
そして今作「102」には、観る人によって希望にも絶望にもなる裏ストーリーが描かれています。
それが「回復の物語」です。
本作「102」には、本来あるべき姿を失ったキャラクターが三体登場します。
以上三体が主要キャラクターです。
そしてあらすじの項目でも述べたように、まずはクルエラが自身を「回復」させます。
クルエラ・デ・ビルの回復物語
あらすじの項でも述べたとおり、クルエラは序盤、行動制御療法によって改心し、「慈善家」を自称するまでに心変わりしていました。
こうしてクルエラは悪女へと舞い戻り、前述の怪物「ルペル」と手を組み、「ダルメシアンの毛皮コート」制作へと着手します。
ワドルスワーズの回復物語
ワドルスワーズは捨て犬ホーム「セカンドチャンス」で保護されているベニコンゴウインコです。
しかしインコでありながら、
- 俺=犬
- 犬=飛べない
- 俺=飛べない
という強固な三段論法で武装しており、まったく飛ぼうとしません。
どういう経緯でそうなっているのか、産まれたときから捨て犬ホームで飼育されているのか、だからインコでありながら自分のことを犬だと信じきっているのか、などは作中で明らかにされませんが、とにかく自分のことを犬だと信じきっています。
ゆえにワドルスワーズは鳥であり、何度も飛ぶように促されているらしく、エサを高所に置かれるなどの仕打ちも受けていますが、それでも飛びません。
またオッドボールが暴走(後述)してバルーンの塊に絡まり、空へと飛ばされた際も救助を期待されて飛ばされようとしましたが、やはり拒否しています。
しかし物語の後半、またもオッドボールが窮地に陥った際、ワドルスワーズは無意識に飛び立ちます。
オッドボールの回復物語
オッドボールの綴りは「Oddball」、和訳すると「変わり者」です。
その名のとおり、オッドボールは少し変わっていて、ダルメシアンなのに黒いブチ模様がありません。
ダルメシアンは通常、生後まもなくはほとんど真っ白で、成長するにつれて明確に黒いブチ模様が現れます。
しかしオッドボールの場合、
ゆえにオッドボールは真っ白な身体がコンプレックスで、黒いインクを身体に塗りたくろうとしてアクシデントに見舞われたり、人形劇で登場した黒いブチ模様の衣装を強奪&暴走してアクシデントに見舞われたり、挙げ句の果てにクルエラからは、
と驚かれて殺害命令を下されたりするなど、散々な目に遭っています。
とはいえクルエラにビックリされたことに関しては不幸中の幸いで、クルエラの隙を生み、その魔の手から逃れることに成功します。
その後オッドボールは囚われた家族やクルエラたちが乗った列車を追跡し、その車体に飛びついてしがみつきますが、振り落とされてしまいます。
が、そこで文字通り飛んできたのがワドルスワーズであり、オッドボールはワドルスワーズに助けられ、列車へと乗り込み、クルエラの破滅へと繋げました。
そして物語の最後、オッドボールにも黒いブチ模様が現れます。
映画「102」に込められたメッセージ
以上のとおり、映画「102」は勧善懲悪だけでなく、「回復の物語」が展開されています。
またその回復の仕方も三者三様です。
クルエラの場合↓
- 回復したもの……本来あるべき毛皮大好き残酷な人格
- 回復後の反応……ニセモノの死に狂喜し、哄笑する
ワドルスワーズの場合↓
- 回復したもの……本来あるべき空を飛ぶ機能
- 回復後の反応……「犬も飛べるんだ」、「俺警察犬じゃなくて救助犬だったんだ」
オッドボールの場合↓
- 回復したもの……本来あるべき成長の証と自尊心
- 回復後の反応……周囲から祝福された(ところでエンディングですが、おそらく自尊心を得てコンプレックスを解消した)
このように、いずれも「本来の自分」を取り戻してはいますが、その様相はそれぞれ異なります。
特にワドルスワーズの場合、「鳥」であることを一部しか回復できておらず、相変わらず自分のことは「空も飛べる種類の犬」だと思い込んでいます。
しかし結局のところは三者とも、「在るべき姿を取り戻した」という一点において、同じ結末を迎えています。
そして終盤で交わされる象徴的な会話をご紹介しましょう。
クルエラが再逮捕され、裁判所の命令でクルエラの全財産が捨て犬ホーム「セカンド・チャンス」に寄付された直後のシーンです。
人間側の主人公、クロエたちに裁判所の令状と小切手を持ってきたのはクルエラの付き人、アロンゾでした。
このクロエのセリフこそが映画「102」の本質です。
クルエラのような人間は変われない。
たとえ「セカンド・チャンス」、一度目の失敗を反省してやり直す機会が与えられても、ダメにしてしまう……。
このように、映画「102」に込められたメッセージは、ちょっぴり残酷です。
でもそれは「悪役」視点での話で、そうでない人たちからすれば、希望でもありますよね。
だって「やり直せない人間」はどんなに悪運に恵まれても最後はやり直せませんが、「やり直せる人間」であれば、どれだけダメだと思われても最後はやり直せるはずですから。
この映画「102」に希望を抱くか絶望を抱くかは、その人の本質次第だというわけです。
「クルエラ・デ・ビル」の本当の意味
ちなみに余談ですが、クルエラ・デ・ビルという名前は、
- クルエラ→Cruella→Cruel→「残酷な」、「無残な」
- デ・ビル→デビル→Devil→「悪魔」
であり、深読みすると、単純に悪役としての悪魔の化身ではなく、残酷な現実の化身にも見えますね。
私たちがどんなに足掻こうと、運命には逆らえない。
それを神と呼ぼうが悪魔と呼ぼうが現実と呼ぼうが、私たちは手のひらで転がされるしかない。
そんな残酷な世界のシステムを暗示する名前なのかもしれません。
映画「102」の感想とレビュー
さて、まとめましょう。
映画「102」は、前作「101」同様、動物たちが魔法を駆使して人間の悪意と戦う物語です。
しかしもうひとつのストーリーとして、世界の法が描かれます。
だれもが本質に回帰し、在るべき結末へと収束していく世界。
私はこの映画「102」の世界が好きです。
幸福になるべき人間は幸福に帰結し、不幸になるべき人間は不幸へと帰結する。
そういう世界であれば、いちいち勧善懲悪を行う必要もありません。
ですからそのへん、映画「102」は前作「101」よりも希望が描かれています。
前作「101」では、魔法でしか対抗できない悪意の猛威が描かれるに留まっていました。
しかし今作「102」では、悪意に対抗する法として、絶対に存在しない魔法ではなく、現実に存在するかもしれない希望の法則も描かれています。
だからこそ後味がよかったのでしょう。
でもこんな話は大抵のお子様には理解できないので、お子様にはオススメできません。
またいい歳をしてクソガキの精神で生きている幼稚な大人にも厳しい映画です。
というわけで総評。
評価: 5.0あなたにも「回復の物語」があるはずです。
以上、映画「102」のレビューでした。
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