聖飢魔IIには『デジタリアン・ラプソディ』という曲があって、
誰かに好かれ 喜び与え 勇気を出させ励まして
自ら望み 生まれてきたと 思わせられればいいのに
と、西暦1997年に歌っています(アルバム『NEWS』収録)。
ソース1:聖飢魔Ⅱ デジタリアン・ラプソディ – YouTube – 2021年9月29日閲覧。
ソース2:聖飢魔II デジタリアン・ラプソディ 歌詞 – 歌ネット – 2021年9月29日閲覧。
で、最近流行中の「親ガチャ」(スマホゲームのガチャにおける抽選結果みたいに、子どもは親を選べない上に格差がある問題を指摘した言葉)を見かけたときにピーン! ときたんですけど、
『デジタリアン・ラプソディ』って、「親ガチャ」を歌っているよね?
もちろん、1997年にはスマホ自体が存在しないため、スマホゲームも「親ガチャ」という言葉も存在しません。
でも本質的には、「親ガチャ」と同じ悩みを歌っています。
しかも、『デジタリアン・ラプソディ』⇒「デジタル主義者の狂詩曲」と、適切すぎるタイトルまでつけています。
さすがは悪魔、20年以上前にデジタルネイティブからスマホ世代の闇まで歌っていただなんて!!
みなさん、これが令和の時代になっても聖飢魔IIが愛され続ける理由です。
というわけで本記事では、「親ガチャ」をテーマに聖飢魔II『デジタリアン・ラプソディ』の歌詞を解説します。
では以下目次です。
夢は重荷 金はオールマイティ 愛はまだわからない
夜ふけのモニター 電磁波浴びて 「ボクらの勇者」が闘う
俺の代りに 傷つき倒れ 何度も生まれ立ち上がる
さて、上記は聖飢魔II『デジタリアン・ラプソディ』の歌い出しです。
『デジタリアン・ラプソディ』が発表された1997年にスマホゲームはありませんでしたが、
- PCゲーム(Microsoft『Windows』、Apple『Macintosh』など)
- TVゲーム(SONY『PlayStation』、任天堂『NINTENDO64』など)
- 携帯ゲーム(任天堂『ゲームボーイ』など)
は、すでに登場していました。
聖飢魔IIが歌う、「ボクらの勇者」とは、そうしたゲームの主人公であり、プレイヤーの分身です。
そしてプレイヤーこと「俺」は、自らの分身が、
俺の代りに 傷つき倒れ 何度も生まれ立ち上がる
傷ついても倒れても、何度でも人生をやり直す姿を見つめている。
現実世界の「俺」は、1度しか生まれることができないし、傷ついて倒れればそれでおしまいなのに。
深夜、モニターを隔ててこの現実と向き合う「俺」の虚しい情景が、ありありと浮かんできます。
さてしかし、何度でも生まれることができる「勇者」は、1度しか生まれることのできない「俺」よりも幸せでしょうか?
夢は重荷 金はオールマイティ 愛はまだわからない
知るべきこと 知らないこと 観てるのさ
夢は重荷です。
「勇者」は、何度でも生まれて立ち上がることができるからこそ、「夢」から逃れられない宿命を背負っています。
たとえば「勇者」には、「魔王を倒して世界を平和にする!!」という「夢」があるとします。
すると「勇者」は、魔王を倒す旅の途中で、
- 何度傷を負わされても、
- 何度血の涙を流しても、
- 何度倒れて死亡しても、
魔王を倒して世界を平和にするまでは許されないでしょう。
だから「ボクらの勇者」は、「何度も生まれ立ち上がる」人生を余儀なくされる。
それはツラいことじゃないか?
こんなふうにして、「俺」はゲームからでも、「夢」や「金」や「愛」について学ぶことができる。
ただし、「本当の愛」についてはまだよくわからないけど、
Wow DIGITALIAN RHAPSODY
もっとフル・ヴォリュームで
響け DIGITALIAN RHAPSODY
本当の愛も みつけられる
まあそのうち見つけられるだろう。
自ら望み 生まれてきたと 思わせられればいいのに
誰かに好かれ 喜び与え 勇気を出させ励まして
自ら望み 生まれてきたと 思わせられればいいのに
さて、サビの応援狂詩曲を挟んで、本格的に「親ガチャ」問題へと切り込んでいきます。
まず最初に、
自ら望み 生まれてきたと 思わせられればいいのに
この「思わせられればいいのに」という願望は、「思わせられていない」現実を告白しています。
その現実は、「何度でも生まれ立ち上がる」ことを他者に命令される「勇者」のことでもあるんでしょうし、
- 自分で望んで生まれてきたわけじゃない!
- だれも「生んでくれ」なんて頼んでない!
- 勝手に生んでおいて親への感謝とかバカ?
と、現実に思っている「俺」や、「俺」と同じような子どもたちのことでもあるんでしょう。
現代風にいえば、「こんな親の子どもに生まれたくなかった!」と思っている親ガチャ「ハズレ」の子どものことを歌っています。
ただこのパートは、前段階の視点をどう区切るかによって解釈が2パターンに分かれます。
つまり『デジタリアン・ラプソディ』は、「俺」の一人称視点ですが、
誰かに好かれ 喜び与え 勇気を出させ励まして
自ら望み 生まれてきたと 思わせられればいいのに
- 「誰かに好かれ」るのはだれなのか?
- 「思わせられればいいのに」と願うのが「俺」だとして、だれに対して?
このへんがちょっと曖昧なので、解釈が分かれると思います。
まずパターン①。
①(「俺」は)誰かに好かれ(て、代わりに「俺」は「俺」を愛してくれた誰かに)喜び(を)与え(て、「俺」はその誰かに)勇気を出させ(たり)励まし(たりし)て(「俺」はその誰かに)自ら望み 生まれてきたと 思わせられればいいのに
パターン①の例では、「俺」は「愛」のために、自分を愛してくれた相手に喜びや勇気や励ましを与えて、相手の「親ガチャ」問題を解消したいと願います。
次にパターン②。
(「俺」を含む親ガチャに外れた子どもでも)誰かに好かれ(ているんだし、誰かに)喜び(を)与え(ているんだし、誰かに)勇気を出させ(たり)励まし(たりし)て(いる、そういう素晴らしい人生を)自ら望み 生まれてきた(……)と(、)思わせられればいいのに
パターン②の場合、「俺」は自分を含む自分と同じ境遇の親ガチャ「ハズレ」の子たちが、自己肯定感を持って「親ガチャ」問題を解消するように願っています。
しかしいずれの解釈にしても、共通点は、「俺」は、「親ガチャ」の解消を願っているってことです。
だから続く歌詞、
過去はtissue paper 現在はnews paper
未来は溶けるスパイメモ
紙きれより 薄いteenagers 誰のせい
この「誰のせい」も、「teenagers(子どもたち)のせいではないよね」という含みがあります。
過去はティッシュペーパー⇒ゴミ箱のティッシュを漁っても(過去を掘り返しても)役に立たない。
いまはニュースペーパー⇒今日の新聞を読んでも、自分のことはどこにも載っていない。
あすは溶けるスパイメモ(水に溶ける紙)⇒未来は読めない。
紙きれより 薄いteenagers 誰のせい⇒この吹けば飛ぶような子どもたちは、だれのせいで過去にも現在にも未来にもすがれないんだ?
Wow DIGITALIAN RHAPSODY
もっと もっと やさしく
響け DIGITALIAN RHAPSODY
本当の愛も 手にするのさ
まあ親のせいだけど、親の愛情にすがれないなら「本当の愛」を掴み取るしかない。
運命なんてさ 軽いものと言えるだろう?
コマンドを脱け 愛にとびこんだ
もだえる俺は 汚物まみれのangel
Save me
親ガチャで生まれた「俺」は、しかし親の命令や支配や親ガチャの運命を否定して生まれ直す。
「愛」のために、自ら望んで生まれるために生まれ直して生まれ変わって、産声を上げる俺は羊水や胎脂や血液の代わりに涙でぐちゃぐちゃで汚いけど天使みたいに自分を救える。
嬉しいとか 悲しいとか 感じるのは自分さ
運命なんてさ 軽いものと 言えるだろう?
当たりだとか外れだとか思うのは自分で、運命だの親ガチャだのは所詮気持ちを入れ替えれば解決する程度の軽い問題でしかないことがわかる。
Wow DIGITALIAN RHAPSODY
もっとフル・ヴォリュームで
響け DIGITALIAN RHAPSODY
本当の愛を聴かせてやる
フル・ヴォリュームで
これがおまえらの悩んでいるくだらない運命論だの決定論だの親ガチャ論だのに対する答えだよ、わかるまでこの『デジタリアン・ラプソディ』をフル・ヴォリュームで響かせてくだらない悩みを生み出す頭の隙間を埋めておけ。
それからわかったらさっさと心を入れ替えて、「本当の愛」を掴め。
本当に愛する人を見つければその人のことで頭がいっぱいになってくだらないことで悩む必要もなくなるから、それまでは俺がこの『デジタリアン・ラプソディ』をフル・ヴォリュームで歌っておまえらの心の隙間を埋めておいてやるから。