フランシスコ・ザビエルみたいに仰向けで寝て、胸の上で両手を重ねる。
私の場合は、この「ザビエル・スタイル」で寝れば100%悪夢を見る。
だから逆にいえば、悪夢を見たくなければザビエル・スタイルを回避すればいい。
実際、日常的に悪夢を見たい人間なんていない。
でもワガママな人間には悪夢を見たいときもあって、
- 幸福を実感したいとき
- 仮眠して起きたいとき
- 話を面白くしたいとき
とかに「悪夢を見る方法」を知っていると便利だ。
でも悪夢を見るのに、①「幸福を実感」とはいきなり矛盾しているように見えるかもしれないけど、幸も不幸も表裏一体なのだ。
このことを理解していれば、悪夢を見ることのメリットも理解できる。
ザビエル
ここでは「仰向けで寝て、胸の上で両手を重ねる睡眠法」を「ザビエル・スタイル」と呼ぶ。
このザビエル・スタイルは、あくまで私個人にとっての、絶対に悪夢を見る方法だ。
「ザビエル・スタイル」は私がいま考えた名前で、このやり方に学術的な正式名称があるのかどうかは知らないし興味もない。
そして「100%悪夢を見る」というのは、今年度(2021年4月~)以降、私が意図的にザビエル・スタイルで寝た直近10回中で10回悪夢を見たという経験に基づく。
言い訳になるけど、こんなしょうもないブログ記事を書くためのネタ作りに1ヶ月間とか1年間とかぶっ続けで悪夢を見ようとは思わない。
だいたいそんなことをするやつは気が狂うか、最初から気が狂っているかのどっちかだ。
それに当然、私が見る悪夢は私にとっては最悪の内容(「うなされて目覚める」が「悪夢」の最低条件)なので、個人的には10回でも頑張ったし偉い。
ちなみにもちろん、ザビエル・スタイル以外で悪夢は見なかった。
私がザビエル・スタイル以外で悪夢を見た記憶は、もう何年前なのかもわからない遠い昔にあるかもしれないだけだ。
その大昔の悪夢でさえ、すべてザビエル・スタイルが引き起こしていたのかもしれない。
つまり、私はザビエル・スタイルをだれかに教わって試したわけではない。
自分で繰り返し悪夢を見るうちに、自分の癖と悪夢の法則に気がついただけだ。
おぼろげながらも覚えているのは、たしか一晩に2回とか3回とか、悪夢を見てはうなされて起きて悪夢を見てはうなされて起きる夜があった。
しかもそういう寝苦しい夜が、短期間のうちに2回はあった。
それで私は自分の学習能力のなさを呪って、悪夢の原因を考えた結果、気づいた。
私、悪夢を見るとき、毎回仰向けで寝て胸の上に両手置いてるじゃん……!!
ザビエル・スタイルの発見である。
もしもいま、繰り返し悪夢を見る夜に苦しんでいる人がいたら、自分が眠るときの「癖」に注目することをオススメする。
癖には個人差があるし、だからそれはザビエル・スタイルではないかもしれないけど、とにかく眠るときの癖がないかを疑うべきだ。
そして私の場合は、ザビエル・スタイルが原因だった。
しかしその時期、私は仰向けで寝ると胸の上に両手を重ねる癖がつきかかっていたらしく、ザビエル・スタイルを発見したあとも、何度かやらかした。
そのたびに悪夢を見て、後悔した。
わかる人にはわかると思うが、ザビエル・スタイルは、なんだか「安らかに眠れる」感じがするのだ。
それで自然とザビエル・スタイルが身につきかかっていた。
いまでも仰向けで寝ると、胸の上に両手を置きたくなる。
でもこれは悪魔の罠だ。
あるいは天使の救済だ。
生きた人間がザビエル・スタイルで眠ると、胸が圧迫されて苦しくなり、その苦しみが夢に投影されたとき悪夢を見る(と、私は思っている)。
そういう意味では、「悪夢」はじつは「悪い夢」ではなく、「悪い姿勢から目覚めさせてくれる夢」なのかもしれない。
そしてもちろん、夢にも姿勢にも胸の強さにも個人差はあるだろうし、ザビエル・スタイルでも平気で安眠できる人間はいるだろう。
だからザビエル・スタイルは、あくまで私個人にとっての、絶対に悪夢を見る方法だ。
悪夢
ところで「悪夢」と一口にいっても、悪夢の内容は人それぞれだ。
私の場合、ザビエル・スタイルで見る悪夢は必ず、害虫が登場する。
これは私が見る悪夢だから、私の個人的な好き嫌いが反映されて、害虫が召喚されているのか?
それとも、私の大嫌いな害虫が登場する夢だから、私が見ると悪夢になっているのか?
つまり悪夢が先か害虫が先かという話だが、とにかく私の見る悪夢では害虫が皆勤賞を受賞している。
マジで死ねとしか思わん。
しかもだいたい、夢のなかの私も同じことを思って害虫駆除を始めるけど、害虫が大量発生したり巨大化したりして手に負えなくなってパニックになるという最悪の展開がお決まりになっている。
だからどれを取っても最悪の悪夢だけど、今回記録した悪夢のなかで、特に私の感情を踏みにじる最低最悪な悪夢がひとつあった。
私は家のなかに涌く虫のなかで、唯一、愛くるしくぴょんぴょん跳ねながらほかの害虫を殺し回ってくれるハエトリグモだけは「益虫」にカウントして可愛がっている。
どれくらい可愛がっているのかというと、たまに見かけたら綿棒に砂糖水を浸してハエトリグモの前に差しだして吸わせてあげたりしているぐらい可愛がっている。
そのハエトリグモが、私の夢のなかでもぴょんぴょん跳ねていた。
ハエトリグモちゃんの跳躍は、私を元気にしますね…
と思いながら、夢のなかの私は自分の部屋でハエトリグモを愛でてほっこりしていた。
でも、次にハエトリグモを見たとき、なんだか少しデカくなっているような気がした。
まあでも、ハエトリグモちゃんが成長してくれれば、その分デカい害虫を殺せるようになるはずだから良いことだ……と思って私は見過ごした。
すると次にハエトリグモを見かけたとき、ハエトリグモっていうかほとんどアシダカグモだった。
どう見てもデカすぎる。
ちなみにアシダカグモは、普通に成虫のゴキブリが主食の蜘蛛で、だから普通に成虫のゴキブリを殺せるサイズだ。
まあでも、さすがにアシダカグモサイズのハエトリグモはちょっとキモいけど、それよりキモいゴキブリが繁殖することのほうが許せないから私は見逃した。
すると次にハエトリグモを見かけたとき、半分サイボーグ化していた。
いやマジで、皮膚が半分破れた「ターミネーター」みたいに、頭部の一部がメタリック化していて、普通は黒くて丸い目が赤く発光していた。
はっきりいってこうやって書き起こすと、滑稽だし笑い事だけど、夢のなかの私はマジでビビり散らかした。
だって巨大化したハエトリグモが、半分サイボーグ化して自分の部屋のデスクの下にいたら普通ビビる。
しかも私がデスクの下を覗き込んだとき、ハエトリグモの赤く発光する目も私を照らしていたのだ。
私はこういうとき、いつもニーチェのあのセリフを引用してニヤつくのが趣味だが、このときばかりはニーチェも消し飛んでいた。
私は裏切られたと思った。
私が見逃してあげていたのをいいことに、ハエトリグモは増長して巨大化して、挙げ句の果てにサイボーグ化して私を狙っている!!
そして、ハエトリグモも殺さなきゃ……!! と私が思ったとき、ハエトリグモは信じられないスピードとジャンプ力で私に飛びかかってきて、私は叫ぶと同時に目が覚めた。
もちろん、現実の私は叫んでいない(はず)。
でも、心臓はバクバクで、現実に私がうなされていたことは明白だった。
要するにこの悪夢が最悪なのは3点、
- 私の可愛がっているハエトリグモを歪めて、巨大化したりサイボーグ化したりしたこと
- つまり私のハエトリグモに対する認識まで、「益虫」⇒「害虫」へと真逆に歪めたこと
- さらには「害虫」と化したハエトリグモに、私を襲わせて心底恐怖感を味わわせたこと
マジで最悪すぎる夢だ(だから悪夢なんだけど)。
でも私はこれから、この「悪夢」が「幸福」に必要なことを説明する。
幸福
人生があまりにも順風満帆すぎて、「悩みがないのが悩み♪」って気分のときに、「よーし、今日はいっちょ悪夢と洒落込んで不幸を感じておくか~」という夜がある(私にはないけど。残念ながら)。
私の友人にはそういう夜があるらしくて、そもそも「悪夢を見る方法」なんて書こうと思ったのは、この友人との会話がきっかけだ。
そして私にも、この友人の行動原理だけはわかる。
幸福を感じるためには、先に不幸の味を舐めておくことが必須なのだ。
「空腹」という不幸が先にあるから、「食事」という幸福にありつける。
でもお腹が減るのが待っていられないってときに、私たちはわざわざ高いお金を払ってまで、不幸な映画やドラマや漫画やアニメやゲームの世界などを疑似体験したりする。
そして「疑似体験」といえば、私たちにとってもっとも身近な疑似体験が、睡眠時の「夢」だ。
私はこの「夢」を、幸福に満ちた彩り鮮やかな世界にする方法は知らない。
でも、害虫に満ちたおぞましい「悪夢」にする方法は知っている。
もしどちらかひとつの方法しか知ることができないなら、どちらを選ぶ?
幸福な夢から目覚めたあとは、平凡な現実世界の汚さやつまらなさに生きるのが嫌になる。
不幸な夢から目覚めたあとは、平和な現実世界の美しさや面白さに生きるのが楽しくなる。
現実の話をすると、私は悪夢を見る方法しか知らないので選択肢はない。
けど、馬鹿と鋏と悪夢も使いようだ。
私が悪夢のなかで見たクソデカサイボーグハエトリグモは、現実世界の小っちゃなハエトリグモをいつもより可愛く見せてくれる。
それに悪夢のなかで自分の部屋に害虫が大量に涌いている地獄を見たあとは、現実世界の今日は虫1匹見かけていない私の部屋が天国に感じる。
私の友人は、私が教えたザビエル・スタイルで自分がストーカーに殺される悪夢を見て興奮していた。
曰く、人間は生きているだけで価値がある云々。
私はその価値観には賛同しかねる立場だけど、まあでも、悪夢のなかで自分が殺されたあとだったらそう感じるのかもしれない。