友だちの数を数えようとして、困るのはなぜか?
それはずっと0人だったのか、昔は何人かいたのか、いたとしたら何人いたのか?
最初は0人だとして、いつからいつまでは友だちがいて、いつからまた0人になったのか?
もしも友だちの数が増減し、なおかつそれぞれの友だち期間もよくわからないなら、
- 友達番号……1番
- 友達番号……2番
- 友達番号……3番
って友だちを100まで数えたとき、最初らへんの友だち番号4番とか9番とか13番とかは、もうすでに友だちではなくなっていたりするのでは?
あるいは逆に、気づいたら友だちになっているような人がいたら、自分で気づかないうちに友だちカウンターだけが回っていて友達番号100番は本当は友達番号101番だったりするのでは?
つまり、「友だち0人」だと思っている人間も、じつは友だち0人じゃないのかもしれないんだし、
「友達」の定義は?「両思い」で数えられる?
- 友だち両思い……友だち
- 友だち片思い……友だちではない
友人だろうが恋人だろうが、②「片思い」では関係性が成立しないと考えるのは、現代日本社会の一般的な共通認識です。
そして「友だち」が、①「思っている状態」なら、人間の思考だけが重要です。
「友だち」には契約もなければ可視化もなく、書面で確認することもできなければ、スマホの連絡帳やSNSのフォロー・フォロワー機能のようにリスト化することもできません。
ウィーン ガチャン
㌰㌰㌰㌰㌰㌰
タダイマケイサンチュウデス
㌰㌰㌰㌰㌰㌰㌰
ハンテイガカンリョウシマシタ
ジーッジーッジーッ
みたいな謎の機械もありません。
仮に、友だち判定ロボットがあったとして……。
友だち判定ロボに、友だち100%だったふたりの名前や顔を記録してくれる機能があったとしても、
それはちょうど、SNSのフォロワー一覧には必ず、中の人がいない放置アカウントが紛れるように。
しかしその放置アカウントは、5年後とかにいきなり、中の人が戻ってくるかもしれません。
そしてふたたび、「いいね」を押してくれたり、返信をしてくれたりするかもしれませんが、
表面上のフォロワー数にはカウントされていたかもしれませんが、実際にはフォロワーとしての機能を失っていたんだから、中身を見ればフォロワーではなかったのでは?
あるいは、その放置アカウントは、もう2度と動き出さないかもしれません。
病気や不慮の事故でアカウントの中身が失われていて、私はまだそのことを知らされていないだけかもしれません。
結婚する夫婦でさえ、「死がふたりを分かつときまで」と誓います。
なら友達関係だって、「死がふたりを分かつときまで」なのでは?
「友だち」の定義として、「友だち両思い」を前提に考えるなら……、
「両思い」が間違っているなら?「片思い」?
~これまでのあらすじ~
~一般的な感覚~
「友だち」を、「友だち両思い」と定義するのがヤバいのかもしれません。
私は、生前友だちだった人とは、死後も友だちでありたいと思っています。
が、思考や思い出があるのかどうかさえわからない(どちらかといえば、たぶんない)死者と友だちで居続けるためには、「友だち両思い」のシステムには問題がありそうです。
- 友人
- 恋人
たしかに、①②「友人」「恋人」どちらも、法律や契約には縛られない自由な関係です。
でも①「友人」は、同時期に100人作っても良い。
一方で②「恋人」は、「日本社会の一般的な共通認識」で考えるなら、同時に作って良いのはひとりだけ(ですよね?)。
ここの人間関係を混同しているから、ややこしいことになっているんでしょうか?
カップルの要件に「両思い」が組み込まれているのは、その限定的・実際的・社会的な契約(約束)の根拠や、お互いの束縛を示すことによって第三者を寄せ付けない機能のためであって……。
特に相手を限定したり、束縛したりしなくてもいいなら、
だから(一般的に)、恋愛には告白があり、結婚にはプロポーズがあるのに……。
友だちには、そういう相思相愛確認儀式がないのでしょうか?
もちろん、
みたいな感じで始まる友達関係もあると思いますし、あっても良いとは思いますが。
でも高校生までならともかく、大学生や大人以降で、わざわざこんなふうに友達関係を申し込んでくる人間がいたら、
ウィーン ガチャン
㌰㌰㌰㌰㌰㌰
タダイマケイサンチュウデス
㌰㌰㌰㌰㌰㌰㌰
ハンテイガカンリョウシマシタ
ジーッジーッジーッ
「友達片思い」と「好きな食べ物」は似ている
こんなふうに、「いつから」とか「なんで」とか訊かれても、大抵は覚えていません。
一番ありえそうなのは、「最初に食べたときに美味しかったから」?
でも考えてみれば、最初に食べたときに美味しいと思った食べ物はいくらでもあるはずなのに、
いろいろな食べ物を食べていくなかで、「好きな食べ物」に選ぶときと、選ばないときの違いはなに?
いろいろな人と出会うなかで、「友だち」に数えるときと、数えないときの違いはなに?
そして私たちは、いつそれを決定するのか?
としか、いえないのでは?
いろいろな食べ物を繰り返し食べる過程のどこかで、その食べ物は「好きな食べ物」に選ばれます。
いろいろな人と繰り返し会う過程のどこかで、その人は「友だち」に数えられます。
ただ私たちは、その時々で、「好きな食べ物」を答えることができるはずです。
同じように、その時々で、「友だち」も数えることができるはず……と思ったら大間違いですよね。
「友だち」と「好きな食べ物」には、決定的な違いがあります。
したがって、「好きな食べ物」を一方的に宣言しても、拒否られることはありません。
でも「友だち」は、こちらの友だち認定と同じぐらい簡単に、友だち否認をしてくる恐れがあります。
ということは、せっかく友だちを数え始めても、途中で勝手に絶交されたり勝手に復活されたり明滅されるとまたカウントが面倒なことになるので、
まとめ:友達の数え方!多めに自己申告する!
- 「友だち」を数える前には、「人の思い」を計る必要があり、人間の能力を超えている
- 「片思い」で認定しても、「好きな食べ物」じゃないんだし、相手にも選ぶ権利がある
- 「友だち」を数えるには、他人から「友だちを選ぶ権利&拒否権」を剥奪するしかない
以上です。
ところで、「友だち両思いだと思っていたら友だち片思いだった」というシチュエーションで傷つくことを恐れている人間は、友だちの数を過少申告しますよね。
~友だちの数え方について~
↑これは傷つかないから困らないという意味でもあるんでしょうか?
しかしここまで述べたように、友だちの数を正確に数える能力は、人間の能力を超えています。
どうせ不正確なら、
傷つくのが怖いなら、過多申告したほうが、トータルでは傷つきません。
なぜなら、過多申告によって、実際の友だちの数も増えるからです。
つまり、逆の立場で考えてみると、
~友だちが増える仕組み~
友だち過少申告派は、「両思いを拒絶されるのが怖い」⇒「相手が私のことを友だちだと思ってくれているなら拒絶する理由はない」と思っているわけだから、こっちから歩み寄れば簡単に友達化できます。
実際、そうした消極的な友達関係は珍しくないでしょう。
しかし、その消極性をもって、「真の友情ではない」などと断罪することはできません。
という、人間の能力の限界を超えた問題がまた発生するからです。
最初は消極的な人間関係でも、時間をかけて親密になる可能性はあるし、「親友以外は友だちではない」とはいえません。
そうして受け身な人間を友だちとして回収していけば、その過程で何人かに拒否られたとしても、
トータルで友だちの数が増えるなら、心に余裕も生まれるため、友だち番号4番とか9番とか13番に拒否られたとしてもそのダメージは無効化できるでしょう。
以上、友だちの数は不特定多数。
だからこそ、友だちは多めに数えるのが良さそうです。
少ないの反対は「多い」です。安田尊@計算を謳うブログ。こんにちは、前回の記事で、【数え方】なぜ友達の数は数えられないのか?ゼロ?本当に?友だちの数え方について書いていて、ちょっと迷いました。~これまでのあらすじ~[…]