世間が映画「ジョーカー」や「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」の金曜ロードショー初放送に沸いているさなか、いまさらですが映画「トゥルーマン・ショー(日本語吹き替え版)」を観たので感想です。
感想は私の個人的な名言セレクトに解説を交えるスタイルでお送りします。
なお本記事が当ブログ最初の「映画感想」記事ということもあり、次の項目では軽く私の映画遍歴や映画「トゥルーマン・ショー」を観たきっかけなどをお話しますが、もちろん目次からスキップ可能です。
リアル「トゥルーマン・ショー」
さて、私はこの映画「トゥルーマン・ショー」、今回が初鑑賞になります。
「トゥルーマン・ショー」は1998年に公開されたアメリカの映画ですが、だからこそ私は、これまで一度も鑑賞したことがありませんでした。
もちろん映画ファンの方からすれば、こんな私の持論のほうこそが面白くない物言いでしょう。
つまり私は、そこまで映画好きでもなければ、古典に対して真新しくもなければ面白くもない(可能性が高い)と思っているタイプの人間です。
それは映画に限らず、たとえば国語の教科書に載っている小説など、
ではそんな私がなぜ劇場公開から20年も経ったいま、映画「トゥルーマン・ショー」に興味を抱いたのか?
きっかけはネットのおもちゃとして有名なsyamu_game氏やaiueo700氏です。
関連リンク↓
このように、当ブログでも何度かネタにしているsyamu_game氏やaiueo700氏ですが、両氏について調べていく過程で、彼らのことを映画「トゥルーマン・ショー」に登場する主人公、「トゥルーマン」に見立てている書き込みを何度か拝見しました(特にsyamu_game氏は「トゥルーマン」役の俳優、ジム・キャリーのファンであり、物真似をするレベルでリスペクトしており、映画「トゥルーマン・ショー」も鑑賞済みのようです)。
そして「トゥルーマン・ショー妄想(Wikipedia)」、あるいは「トゥルーマン・ショー症候群」とも呼ばれる精神病の亜種を知るまでに至り、
というわけで、観たので感想です。
名言その一「我々は役者が演じるニセモノの感情にはもうウンザリなんだ」
このセリフで映画「トゥルーマン・ショー」は幕を開けます。
発言者はクリストフです。
クリストフは作中作であるリアリティ番組「トゥルーマン・ショー」の生みの親であり、番組プロデューサーにして舞台の設計者でもあり建築家にして監督も務めています(有能すぎる……)。
映画「トゥルーマン・ショー」のあらすじ
続いてクリストフは、リアリティ番組「トゥルーマン・ショー」の概要を説明します。
- このショーは作り物の世界だが、主人公「トゥルーマン」にとっては現実の世界である
- トゥルーマンには台本もないし、指示も出されない
- トゥルーマンはホンモノの人生を送っている
というわけで、映画「トゥルーマン・ショー」のあらすじは、生まれたときから29年間、虚構の空と海の離島で過ごし、24時間365日体制で撮影され、リアルタイムで全世界のテレビ画面に映しだされているひとりの男性、その名も「トゥルーマン」を描いた物語になります。
離島の住民はすべて役者とエキストラ。
離島に設置されたカメラは5000台。
トゥルーマンの親も親友も配偶者も、すべて隠しカメラやマイクやイヤホンを仕込んだヤラセ要員。
制作費は広告やカタログ販売でまかなわれており、役者たちが隙あらば広告を画面内に写したり、商品を紹介したり、トゥルーマンに使わせるなどして日夜宣伝活動に励んでいます。
そんな天も地も人もなにもかもニセモノの世界にあって、
と、なにも知らずにご近所と陽気な挨拶を交わしているのはトゥルーマンだけ……。
そしてリアリティ番組「トゥルーマン・ショー」10909日目(トゥルーマン30歳目前)から物語は動き始めます。
名言その二「ああ……さすが神の創造物……」
沈みゆく夕日を眺めながらトゥルーマンはいいます。
このセリフの前、トゥルーマンは身の回りの「世界」に違和感を覚え、自分は陰謀に巻き込まれているんじゃないか、と親友に相談します。
さらにトゥルーマンは前々から「外の世界」、すなわち離島の外に思いを馳せており、離島への違和感がその思いを加速させている様子です。
が、しかし親友はもちろん「陰謀」に従事している側であり、トゥルーマンが「外の世界」に向かわないよう誘導するのが仕事です。
そこで親友は、「この島が一番だ」と主張し、その根拠としていままさに夕日が沈むことを指摘し、「完璧だな……」と称賛を促します。
はたしてトゥルーマンは、親友の狙い通りに釣られて日没の空を見上げ、
そしてふたりして神の腕前を称えますが、もちろんその夕日も空もニセモノの景色であり、神の創造物なんかではなく、人間が作った撮影用のセットです。
愚かですよね。
人間の愚かさ、滑稽さがとてもよく表現されたセリフだと思います。
しかし人間は、居もしない神なんかにはひれ伏しません。
その証拠にトゥルーマンは、完璧な景色を眺めながらも親友にだけ、島を離れることを告げるのです。
名言その三「与えられた人生をそのまま受け入れることは、容易だからです」
さて、しかしトゥルーマンの離島脱出は、クリストフの辣腕によって阻止されます。
そこで大仕事を終えたクリストフは、一区切りとばかりにリアリティ番組「トゥルーマンショー」をテーマにした討論形式の番組にインタビュー出演します。
その番組でクリストフは、「なぜトゥルーマンが現在まで、自分の人生を疑わなかったと思うか」と訊ねられ、こう答えます。
愚かですよね(二度目)。
人間は易きに流れる愚かな生き物です。
だからこそ多くの人は、自由度が高い人生より自由度が低い人生を好き好んで生きています。
勉強にしても、仕事にしても、恋愛でも結婚でも、だれかの基準、だれかの指示、だれかの台本に従って生きています。
それはゲームの世界でさえ、おつかいばかりさせられるゲームなら嬉々としてやれるのに、「なにをするのもあなたの自由!」みたいな自由度が高いゲームをさせた途端、楽しみ方がわからず途方に暮れる人が大勢います。
またブログであれば、映画に特化したブログから「映画の感想を書いて寄越して」と依頼されればすぐに映画を選び始めるのに、雑記ブログから「ジャンルは任せるからなにか記事を寄稿して」とお願いされたらなにを書けばいいのか定まらず、ただただ時間だけが過ぎていく人は多そうです。
そしてトゥルーマンの場合は、トゥルーマンにこそ台本も指示もありませんが、周りのすべての人間が脚本に沿って動いており、すべてがコントロールされています。
親友になる人間も、結婚する相手も、島から一歩も出ないことも決まっています。
全部決まっていて、手に入っていて、ただそのシナリオを受け入れるだけでいい。
抗わなければ、自動的に進んでいきます。
そりゃ楽ちんですよね。
幸せですよね。
ただ自由だけがそこにないけど、そんなものはいらないよね?
と、このセリフは投げかけてきます。
答えは人それぞれでしょうが、きっと大多数の人間が反発を覚えつつも、「いらない」と体現した人生を送っていることはお見通しです。
しかしトゥルーマンは……。
名言その四「頭のなかにカメラはない!」
トゥルーマンは諦めず、「島から一歩も出ない」というシナリオを克服し、ヨットで海に飛びだします。
もちろんクリストフは邪魔をしますが、トゥルーマンはクリストフの操る嵐や荒波にも負けず、海の果て、「世界」の行き止まりで「壁」にヨットの先端がぶっ刺さるところまで到達します。
そして壁伝いに歩き、階段を上り、「EXIT」と刻印された扉を見つけます。
扉を開け放つトゥルーマン。
同時にクリストフが音声を伝え、トゥルーマンにすべてを打ち明け、説得を試みます。
この「世界」こそが真実であり、嘘や偽善はあっても、危険はない楽園なのだと。
だからトゥルーマンはそこにいるべきで、トゥルーマンが予定調和もご都合主義もない危険な「外の世界」に恐れをなすことはお見通しなんだ、と。
しかしトゥルーマンは、
見てもいないくせに、自分の考えを決めつけるな、とクリストフをはねつけます。
個人的には、このセリフが映画「トゥルーマン・ショー」一番の名台詞です。
クリストフは、トゥルーマンが誕生した瞬間から29年間、トゥルーマンを見てきました。
まるで未熟な親が我が子に対して思うように、「君より君をよく知っている」と豪語するだけの根拠も自信もあるつもりでしょう。
それでも、トゥルーマンの頭のなかまでは覗けていない。
それが子に対する親の限界であり、クリストフの敗因です。
名言その五「会えないときのために。こんにちはこんばんはおやすみ!」
そしてトゥルーマンは決断します。
笑顔で別れの挨拶を告げ、「それじゃ!」と一礼をしてみせ、「世界」の出口へと消えていきます。
もちろんこの挨拶は、クリストフだけではなく、テレビの視聴者にも向けられています。
もうリアリティ番組「トゥルーマン・ショー」は終わり。
だからもう二度と会えないかもしれないけど、
というわけです。
この挨拶は映画の冒頭でもトゥルーマンが述べており、「トゥルーマン」という陽気なキャラクターの登場を印象づけていました。
それが映画の終盤では「トゥルーマン」というキャラクターの退場を告げる挨拶に変化しているわけですから、綺麗なオチに繋がっていますね……好きです。
映画「トゥルーマン・ショー」の感想
というわけで、映画「トゥルーマン・ショー」を観て個人的に気に入ったセリフ周りの解説でしたが、映画全体の感想としては、
評価: 5.0面白かった(小学生並みの感想)
だって面白かったんだからしょうがない。
特に本記事で取り上げたセリフでいえば、最後ふたつ!
私、ああいう皮肉めいた言い回しと、同じセリフだけど意味合いが変化するセリフに弱いんです(っていうか弱くないやついるの?)。
それに全体的に人間を皮肉ってくるスタイル、好きです。
ラストもリアリティ番組「トゥルーマン・ショー」が終わった途端、別の番組を探し始める視聴者の姿が描かれており、所詮エンタメなんて使い捨て、どれだけ壮大でも人間ひとりの人生を生け贄に熱狂させてもその程度、という皮肉が読み取れます。
しかし皮肉られっぱなしで終わりにしたくなければ、せめて私たちも、トゥルーマンのように新しいチャレンジをする覚悟が必要でしょう。
といっても別に、日本列島からヨットで飛びださなければダメとか、そんな大それた話ではありません。
たとえばブログに新しいカテゴリーを追加して、これまで特に興味のなかった映画を観て、これまで書いたこともない映画の感想を書く……まあまさにいま私がやっていることなんですが、その程度のことで十分です。
とにもかくにも、この世界には神もいなければ、与えられた人生もなければ、邪魔をしてくるプロデューサーもいません。
だからどんどん好きなことをして、新しいことにチャレンジして、自分の人生を切り開けばいい。
私はそうします。
ああ、あと……忘れていましたが、「トゥルーマン」を見ていて、特にsyamu_game氏やaiueo700氏のことを想起することはありませんでした(どれぐらい忘れていたのかというと、じつは上記の「私はそうします。」で一回記事を締めくくっており、最初から記事を読み直していて気づくまで忘れていました)。
しかし、あえていえばトゥルーマンではなく「クリストフ」、大物番組プロデューサーであるクリストフこそが、現実ではない場所に真実を求めるsyamu_game氏やaiueo700氏と重なりそうです。
彼らは現実を拒絶し、自らの信じる真実をカメラに収めたという点で同じです。
その点、あくまで現実を選んだトゥルーマンとは真逆の精神性といえるでしょう。
ただし、映画本編の解釈としてはそれで問題ないはずですが、とはいえトゥルーマンがクリストフの「世界」からEXITした先が現実とは限りません。
そこまでが筋書き通りであり、そこからも筋書き通りであり、トゥルーマンはもちろん、クリストフやほかの「自分が視ている側」だと信じている面々さえも、じつは「視られている側」かもしれません。
そしてトゥルーマンがグッバイした翌日には、新シーズンが開幕している可能性だってなきにしもあらずです。
syamu_game氏やaiueo700氏にしても、彼らの映しだす世界こそが世界の真実であり、私たちのほうこそが虚構の世界に生きている可能性は常にあります。
つまりなにがいいたいのかというと、こういうことです。
いつもおまえのことを見ているぞ。
THIS IS THE ANSWER.