菊と刀(著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正、光文社2008年)を読みました。
~『菊と刀』の簡単な概要~
つまり私たち現代人(2024年)からすれば、約80年前に提唱された日本人論です。
当時日本と戦争中だったアメリカが、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」といわんばかりに、人類学者に日本を分析させた成果が出版されたという経緯があります。
しかし「菊と刀」といわれても、いまや菊よりSNS、刀より誹謗中傷表現の自由を愛する私たちからすれば、
長年、日本人論の決定版とされてきた本書も、さすがに時代遅れすぎました。
それでも日本人として、教養人ぶるために読まなければならない場合は、ファンタジー小説かなにかだと思って楽しみましょう。
では以下目次です。
日本人は親孝行のために妻子を死なせる
~アメリカ人と日本人の比較~
といった感じで、比較によって日本人像(とアメリカ人像)を浮き彫りにしようって腹です。
それで著者はアメリカ人なので、自然とアメリカ人のポジションで語れるし……。
私は日本人なので、自然と日本人の立場で読めるし……と思いきや、
どうしよう、私日本人なのに……。
京都生まれ京都育ち京都市民なのに、アメリカ人と同じ考えなんだけど……(でもいきなり謝ったのは日本人っぽいかも)。
一例を見せましょう↓
~親孝行ファンタジー~
日本の現代映画の一つに、次のような筋書きの作品がある。母親が、既婚の息子の手元にまとまった金があるのを見つける。それは、ある女子生徒を救おうとして、村の学校の教師をしている息子が村人から集めた金であった。女子生徒は、地方を襲った飢饉の中、生活に窮した両親の手で娼家に売られる寸前だったのである。そうこうしているうちに、教師の母親がその金を息子から盗む。彼女は、自前の立派な食堂を経営しており、決して貧しいわけではないにもかかわらずである。息子は母親が金を盗んだことを知るが、責めは自分で負わなければならない。事の真相は、息子の嫁に知れる。嫁は、金が盗まれた責任はすべて自分にあるという趣旨の遺書を残し、赤ん坊を道連れにして入水自殺する。やがて事実が知れ渡るが、この悲劇における母親の役割は問題にすらならない。こうして息子は孝の掟を果たした。そして、ひとり北海道に旅立つ。将来、同様の試練に遭ったときにそなえて自分を鍛えるために、修養を積もうと考えたのである。この教師は有徳の士である――。
ソース:『菊と刀』 – 著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正 – 光文社2008年
3行で要約すれば、ある女子生徒が、貧乏すぎて売春婦になるしかなかった。
そこで教師が、村のみんなからお金を集めて、女子生徒を助けようとした。
が、教師の母親が村の金を盗んだので、教師の妻子供が責任を取って自殺した。
~アメリカ文化~
~日本文化~
つまり、母親(泥棒)が悪いのは日米で合意しています。
だからアメリカ人は、母親が悪い⇒母親の罪⇒母親への罰と一貫して、母親が悪いのだから母親が責任を取れという。
しかし日本人は、母親が悪いとしても、それより親不孝のほうが悪いのだから、
そして「孝行」の玉突き事故によって、教師(夫)に責任を負わせる妻子供も、恩知らず&恥知らずのクズである(もちろん義理の親孝行に則り、義母批判などありえない)。
したがって、教師の妻子供がすべての責任を取って自殺するのが日本流である……。
う~~~~ん、では僭越ながら、現代の日本文化を私が代弁します。
~現代の日本文化(2024年)~
現代人の私にいわせれば、教師の妻子供が自殺したのは、おまえのクソ遺伝子を後世に残すのが恥ずかしいからだよ。
あるいは私には、政治の世界の異常さを一般家庭に当てはめた風刺映画としか思えません。
政治家が国民の税金を盗んだ責任で、秘書がクビ・逮捕・自殺といえば、現代でもよくある話です。
日本人は天皇のためなら親孝行もやめる
~天皇崇拝ファンタジー~
孝行をやめることが許されるのは、孝行が天皇に対する義務と矛盾する場合だけであった。
ソース:『菊と刀』 – 著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正 – 光文社2008年
まあそりゃ、親孝行が最強なら、母親が息子に「戦争なんていかないで」と泣いて頼めば徴兵拒否できることになります。
それじゃあ戦争なんてできないというので、親孝行の徴兵拒否をさらに拒否できるのが、天皇でした。
天皇が開戦だといえば戦争を始め、天皇が敗戦だといえば戦争をやめる……。
日本人捕虜はこう主張していた。日本国民は、天皇の命令がある限り、「竹槍で」死ぬまで戦うだろう。だがそれと同じように、敗戦と占領をおとなしく受け入れるだろう、天皇がそうせよと命じるならば――。
ソース:『菊と刀』 – 著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正 – 光文社2008年
ごめん、どうしてそうなった?
本書『菊と刀』は第二次世界大戦中の要請を受けて書かれているので、特に戦争絡みの天皇最強伝説が盛りだくさんなんですが……。
どうして日本人がそうなってしまったのかは、よくわかりませんでした(疑似宗教や政策方面での解説はされていますが、その上で理解に苦しむ)。
要するに有名人やインフルエンサーの究極版でしかないというのが、現代人の少なくない認識です。
その証拠に、メディアは天皇家の醜聞やスキャンダルを売りまくり、ネットではアクセス稼ぎのネタ画像やネタ動画があふれています。
でも本書に登場する天皇は、偶然でも事故でも少しでも不敬があれば死で償うしかない勢いだし、
もうね、日本人がイスラームの聖戦士なんですよ。
アッラーフ・アクバル!(自爆テロ)なんですよ。
でもイスラームには、アッラーという唯一絶対永遠の神が存在し、神性を支えるクルアーン(神の言葉)も存在するので崇拝が成立する論理はわかります。
なんで親より自分の命より、天皇の命令に従うことを至上の喜びとしていたの……?
当時の知識だけでも、天皇崇拝に根拠がないことはわかってもよさそうです。
根拠がないから、敗戦やGHQの占領や日本国憲法(天皇の人間宣言など)によって天皇の権威は失墜しました。
それこそイスラームのように、強固な論理の上に宗教を構築していれば、敗戦しようが法律を変えられようが聖典を焼かれようが信仰は続けられただろうに(実際、イスラームはあらゆる苦難を乗り越えて2024年現在も世界的支持を得ている)。
天皇などという、どう見ても人間、どう見てもメシを食らいクソを垂れ流し歳を取って死んでいくだけの人間をなぜそこまで崇拝したのか。
イスラームは偶像崇拝禁止(神そのものではなく神の絵や銅像などのニセモノを拝むのは禁止、てかニセモノを作った時点で殺されるレベル)だが、
たとえば、学校に掲げてある天皇陛下の御真影が火災によって危険にさらされたために、校長が失火の原因とはまったく無関係であるにもかかわらず、自殺を遂げた例は枚挙にいとまがない。御真影を救い出そうとして、炎上する校舎の中に飛び込んで焼け死んだ教師もいる。
ソース:『菊と刀』 – 著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正 – 光文社2008年
上記は日本人の忠誠心を示すエピソードですが、なぜその飼い主が天皇だったのか……。
いまでは昭和天皇の肖像なんて、芸術家が燃やして遊んでいるぐらいなのに(あいちトリエンナーレ2019、表現の不自由展)。
ソース:昭和天皇の肖像燃やすシーン「憎悪や侮辱の表明ではない」 名古屋地裁 愛知のトリエンナーレ – 産経ニュース – 2024年2月14日閲覧。
『菊と刀』に登場する日本人だったら、天皇炎上に手を貸してしまったこと、自ら死んでお詫びしていたはずです。
それがいまじゃ、不快だのヘイトだの天皇批判の意図がどうだので争う姿勢、せいぜい脅迫や誹謗中傷が飛び交う程度の生ぬるい天皇崇拝に落ちぶれています(もちろんだれひとり死んでいない)。
そこまで落ちぶれるものに文字通り命を捧げていた昔の日本人、
日本人は責任感を持てば死体でも歩ける
~「奇跡的な事実」~
空中戦が終わったあと、日本の航空機は三機か四機ずつ小編隊を組んで順次、基地に戻った。最初に帰還した編隊の機上に、ある大尉がいた。大尉は大地に降り立つと、双眼鏡で空を見上げた。大尉は、部下が帰ってくるのを一機、二機と数えた。大尉は顔色こそ蒼白だったが、身じろぎひとつしなかった。最後の一機が帰還すると、大尉は報告書を作成し、司令部に向かった。そして、司令官に報告をおこなった。だが、報告を終えると同時に、くずれるように床に倒れた。その場に居合わせた士官たちは助け起こそうと駆け寄ったが、何と、大尉は事切れていたのである。調べてみると、遺体はすでに冷たい。胸には銃創があり、それが致命傷になったということが判明した。息を引き取ったばかりなのに遺体が冷たいということはあり得ない。にもかかわらず、大尉の遺体は氷のように冷たかった。大尉はかなり前に亡くなっていたはずである。報告をおこなったのは、大尉の魂だったのである。大尉が厳格な責任感の持ち主だったからこそ、このような奇跡が起こったに違いない。
ソース:『菊と刀』 – 著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正 – 光文社2008年
上記は、アメリカと戦争中だった日本が、ラジオ番組で垂れ流していた妄言英雄譚だそうです。
一言でまとめれば、死んでもゾンビになって使命を果たした日本人スゴイ!
『菊と刀』著者のルース・ベネディクトはいいます、
やめてくれよ、まだ竹槍でB29爆撃機と戦う日本人のほうが現実的だよ(ちなみに『菊と刀』は、「菊と竹槍」でもいいぐらい「竹槍」も連呼している)。
でも当時は、日本にはそうした精神論が蔓延していた……(だから新聞が「竹槍」を批判すれば、発売禁止処分が下るなど言論弾圧された)。
ソース:竹槍事件 – Wikipedia – 2024年2月14日閲覧。
日本人は自己責任を、「身から出た錆」を防ぐ責任と説明している。これは、人の身体を刀になぞらえた比喩である。刀を差している武士には、刀の輝きを保つ責任がある。ちょうどそれと同じように、各人はおのれの行動の結果に対して責任を負わなければならない。惰弱であること、粘り強さに欠けること、無能であること――そこから派生する当然の帰結は一切がっさい認め、受け入れなければならない。日本における自己責任の解釈は徹底的である。その点では、自由なアメリカは日本に遠く及ばない。このような日本的な意味において、刀は侵略の象徴ではない。むしろ、申し分のない、自己責任をわきまえた人物の比喩となっている。個人の自由を大事にする時代にあって、行き過ぎを防ぐ役割を果たすのは、何よりも自己責任という美徳である。日本人は子ども時代のしつけと行動哲学を通じて、そのような美徳を大和魂の一部として身に付けている。今や日本人は、降伏するという意味で「刀を放棄する」ことを申し出た。だが日本人は、日本的な意味においては不変の強みをそなえている。錆に侵されやすい内なる刀を錆びつかせないよう腐心するという習性があるからだ。日本人の道徳に関する用語法によれば、刀は、自由で平和な世界においても保つことのできる象徴である。
ソース:『菊と刀』 – 著:ルース・ベネディクト、訳:角田安正 – 光文社2008年
↑らしいですが、そんな立派な「刀」を差した日本人は、歩く死体並みに見かけません。
逆に、錆びついた刀を持ち歩く日本人なら、スマホゾンビ(歩きスマホ)並みに見かけますが。
たしかに日本人は、いまでも「責任」や「自己責任」が大好きな民族だけど、
~安倍元首相銃撃事件(2022年)~
~親孝行ファンタジー~
まとめ:『菊と刀』はファンタジー小説
- 書籍『菊と刀』は、日本と戦争中だったアメリカが、日本人を知るために研究した日本人論
- 1946年から長らく日本人論の決定版とされてきたが、2024年現在は大部分が陳腐化している
- 日本人の古き善き武士道も、古き悪しき精神主義も、西洋化の波に呑まれて淘汰される運命
以上です。
以下総評!
評価: 5.0ルース・ベネディクト『菊と刀』は、タイトルが示すように主に戦前の日本人を研究した文化論です。
・大抵の男は、芸者または娼妓のもとを訪れたことが一度や二度はある
・そのような遊びは、決して人目を忍んでするものではない
・夫が訪れた悪所から、妻のところに請求書が回されることもある
・すると、妻は当然のこととして支払いをする
・女性は出産の際、声を立てることを許されない
・東京放送局(現NHK)「体操をすれば、おなかを空かせた人々もふたたび体力と活力を取り戻せる」
・「誠実」
・「恥」
昭惠夫人「病院に駆けつけた際に安倍元総理の手を握ると握り返してくれたような気がした」
ソース2:昭恵夫人 最後の別れで遺体に頬ずり… 「手を握ると握り返してくれた気がした」 安倍元総理告別式の様子 – TBS NEWS DIG – 2024年2月14日閲覧。
以上、2024年の日本人が『菊と刀』を読んだ感想でした!