ウンコな議論(著:ハリー・G・フランクファート、訳:山形浩生、出版社:ちくま学芸文庫2016年、原文:1986年)には、
世界最高峰の哲学者、ウィトゲンシュタインのエピソードを例に、「ウンコ議論」の本質が説かれています。
『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』って、聞いたことありますか?
いわば、それの議論版、「クソどうでもいい議論の理論」です(原題『On Bullshit』)。
っていうと、もうこの言い回しがすでに「ウンコ議論」の入り口に立っているんですが(しかし、ここは議論の場ではなく私のブログなので、私の好きにやります。うんち!)。
つまり、「ウンコ議論」とは、
なんか君、「それっぽいこと」いってるけど、なにも真実や実態を言い表していないよね?
そんなウンコ座りみたいな姿勢じゃ、真剣な議論はできないんだよ、クソ野郎。
と、突っ込まれるような口上のもとに行われる議論です。
私が「ウンコ議論」の説明に「ブルシット・ジョブ」を引き合いに出したのも、なんだか「それっぽい」けど、冷静に考えたらよくわからない。
そして、賢明な人間からは、こう突っ込まれるわけです。
おまえの余計なウンコ解説はいらないから、さっさと「ウンコ議論」の本質とやらを、正確に説明してくれないか?
OK、では以下目次です。
ウンコ議論とは?真実や事実や実態を語らない態度
扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。
ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。
「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。
するとかれは露骨にいやな顔をしました。
「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう」
上記は、ウィトゲンシュタインについて、ファニア・パスカル(1930年代、ケンブリッジでウィトゲンシュタインと交友関係にあった知人女性)が語った逸話です。
本書『ウンコな議論』では、
ウィトゲンシュタインはその哲学的なエネルギーを、もっぱら狡猾で破壊的な「ナンセンス」と考えるものの発見と阻止に費やしていた。
と、紹介されています。
そして、
ウィトゲンシュタインは、発見して、阻止したわけです……「ウンコ議論」を。
「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。
「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう」
ウンコ議論の本質は、このやりとりに凝縮されています。
ウィトゲンシュタインが、比喩表現もわからない社会不適合者だとか、逆にそういう印象を狙った悪ふざけ(わざとコミュ障だと思われるような冗談をかました)説だとかは一旦脇に置いておいてください。
厳密に考えれば、
私たち人間は、「車にひかれた犬の気分」を知りませんよね?
にんげんだもの。
つまり、私たち人間の気分がどれだけ悪くても、「車にひかれた犬の気持ち」と表現するのは正しくありません。
たとえ、車に轢かれた犬の気分が、悪いものだとしても。
一口に「悪い気分」といっても、
人間が、扁桃腺で入院したときの悪い気分
犬が、車に轢かれたときの悪い気分
このふたつの「悪い気分」は、違うわけです(あるいは、まったく同じかもしれませんが)。
私たちは、このふたつがどう違うのか(同じなのか)さえ、詳しくは知りません。
私たち人間は、犬でもなければ、犬になって車に轢かれたこともないからです。
それなのに、人間パスカルは、まるで犬になって車に轢かれてきたみたいにいいました。
「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。
「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう」
ウィトゲンシュタイン、圧倒的に正しい。
なぜ人間の気分を表すのに、犬の気分なんかを持ち出しているのか?
素直に、こういえばいいじゃないか。
私は気分が悪い
と。
それこそが真実であり、事実であり、実態だろう。
真偽のわからない想像や、思い込みで語る必要がどこにある?
まあどこに必要性があるのかといわれれば、
ただの日常会話における、ジョークやユーモアじゃないか……
という話なんですが。
だからパスカルは、別に嘘をつこうとしたわけでも、ウィトゲンシュタインを騙そうとしたわけでもありません。
ただちょっと、自分の状態を表す言葉について、配慮や自己批判を欠いただけです。
でもただの雑談なんだから、ちょっとぐらい思いつきで喋ったり、考えなしに口から出任せをいったりしてもいいじゃないか……
そう思う私たちは、だからウィトゲンシュタインのこの話を、コミュ障エピソードとして理解するでしょう(おそらくパスカルも、ウィトゲンシュタインの不寛容さや融通の利かなさ、クソ真面目さを紹介したのでしょう)。
でも真剣な議論においては、このウィトゲンシュタインの厳格な姿勢こそが、肝要です。
- 前提……私は、扁桃腺の摘出を受けて気分が悪い
- 前提……犬は、車に轢かれれば気分が悪いだろう
- 結論……私は、車に轢かれた犬と同じ気分である
日常会話や世間話なら、このレベルで喋ってもいい。
個人的なブログでする例え話も、このレベルでいい。
でも真剣な議論においては、②「犬は、車に轢かれれば気分が悪いだろう」みたいな真実を追求しない情報は、クソの役にも立ちません。
役に立たないだけならまだしも、理路整然とした議論の美しさを汚すなら、有害ですらあります。
こっちはスムーズに議論を進めたいのに、ウンコを詰まらせているやつがいたら、話が進みません。
だからこそ、こうしたウンコ前提を垂れるウンコ野郎の浅はかさを、「ウンコ議論」と呼ぶのです。
ウンコ議論を避けるには?神とウンコは細部に宿る
技芸の古き日々には
あらゆる微小で目に見えぬ部分を
建設者たちは細心の注意をもって仕上げた
なぜなら神々はあらゆる場所におわすから。
上記は、アメリカの詩人、ロングフェローの詩です。
ウィトゲンシュタインは、上記の詩を、
自分のモットーとして使える
と、評価しています。
ロングフェローの詩は、一言でいえばこういうことです。
神は細部に宿る。
「ウンコ議論」を踏みたくなければ、私たちは議論においても、細部を詰める必要があります。
なぜなら、
ウンコも細部に宿る
からです(宿便)。
私がいま書いていて思いだした、ウンコ事例をひとつ紹介しましょう。
それはある海外ドラマで、主人公は黒髪で短髪の男でした(ちょっといま手元にないので、慎重を期してタイトルは伏せますが)。
黒髪短髪の主人公が、バイク・スタントをするシーン。
スタントマン(代役)を使ったのでしょう。
バイクに乗っていた主人公とされる男の後ろ姿、フルフェイスのヘルメットの下から、
ウンコみたいな茶髪の襟足が、風になびいていました。
主人公は黒髪の男なのに、スタントマンにウンコみたいな茶髪のロン毛を使う。
まさに、細部にウンコが宿った瞬間です。
どうせフルフェイスのヘルメットで見えないだろう、と手抜きをして、細部を詰めないからウンコが詰まる。
これで考えてみれば、ウィトゲンシュタインがパスカルに、「いやな顔」を見せたのも当然かもしれません。
どうせ雑談だから、と手抜きをして、知りもしない「犬の気分」を騙ったパスカル……。
ウィトゲンシュタインは、このパスカルのウンコ仕草に、悪臭を感じたのではないでしょうか。
まとめ:真面目な議論で「神」はウンコ注意警報!
それではおさらいも兼ねて、ここまでの要点を3点でまとめます。
- ウンコ議論の本質は、「真実への配慮との関連欠如――物事の実態についてのこの無関心ぶり」
- 問題は、発言者の嘘や悪意や不正確性ではなく、嘘か誠かすら自問自答していない不誠実な姿勢
- ウンコ座りのウンコ野郎になるのが嫌なら、細部には神を宿し、ウンコに付け入る隙を与えるな
以上です。
ところで、
いまも私は、ウンコ議論を吹っかけているんですが、おわかりでしょうか?
まとめの③で、「ウンコ座り」だの「神」だの、「それっぽいけどじつはよくわからないこと」をいっています。
これがウンコ議論です。
私がこれをやっているのは、ここが私のブログで、私は私のブログがウンコまみれになってもいいと思っているからです。
でも、
真面目な議論ではやらない。
真面目な議論をするべきときに、真実とは関係のないウンコだの神だのを持ち出すやつは、ウンコ議論信者です。
最後に、現実の具体例を挙げましょう。
以下は、東京オリンピック(2020)前、当時大会組織委員会会長だった森喜朗会長の言葉です。
早くコロナウイルスを消し飛んでほしいなと神にも祈るような毎日だ
きみはコロナウイルスと神の関係なんか知らないだろう
これがウンコ議論の見本です。
ソース:五輪組織委・森喜朗会長“神にも祈る毎日” – 日テレNEWS24 – 2021年12月20日閲覧。
以上、ウィトゲンシュタインとフランクファートに学ぶ、『ウンコな議論』の解説でした!