トロッコ問題を教材にした授業が小中学校で実施された結果、授業を受けた生徒が不安を感じているとのことで、両校の保護者から抗議があり、学校側が謝罪するというニュースがありました。
今回はこのトロッコ問題と授業内容について、私見を述べたいと思います。
ちなみに私の答えは、
です。
以下で解説します。
「トロッコ問題」の簡単な概要
ではまず、トロッコ問題の簡単な概要ですが、件の小中学校で取り扱った内容は以下のとおりです。
まず授業で配布されたプリントには、
が入っていたそうです。
そしてテキストでは説明文と質問、
- このまま進めば5人が線路上に横たわっている
- あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる
- トロッコにブレーキはついていない
- あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか
が添えられ、選択肢として、
- 何もせずに5人が死ぬ運命
- 自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命
が提示されていたそうです。
しかしこの授業では「答え」を設定しておらず、
とのことです。
ソース:死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪 – Yahoo! – 2019年10月3日(木)閲覧。※2020年5月17日(日)リンク切れ確認。
生徒が不安になった理由
さて、まず私がこのニュースの見出しを読んで最初に抱いた感想は、
という老害寄りの意見でしたが、記事本文を読んで考えを修正しました。
これね……授業内容がゴミ。
この報じられている授業内容で間違いないのであれば、ゴミとしかいいようがありません。
そもそもトロッコ問題って、周りに助けを求めることができない状況だよね?
その状況で、
っていうのがトロッコ問題のテーマであって、「周り」とか存在しなくない?
なのに「トロッコ問題」で「周りに助けを求めることの大切さを知ってもらう」って、どういうこと?
もしかして、答えのない問題を出題して生徒を不安にさせて、不安な生徒同士で相談させて、助け合わせるのが狙いの授業ってこと?
でも、
ってことは、
って内容ではないんだよね。
私の回答と解説
で、じゃあどうやったら不安を回避できたのかって、
「トロッコ問題」を、答えのない問題を教育として扱うなら、答えをださせるところまでやらないのは手抜きだよね。
そこで回答を求めた上で生徒から飛びだしてくるありとあらゆる答え方と向き合って話し合う覚悟も用意もないなら「トロッコ問題」を扱うなって話でしょ?
ただ答えのない問題をだして答えは求めませんハイ終了~これのどこが教育なの?
最近トロッコ問題を知ってトロッコ問題いいたいだけのガキかよ。
教育を謳うならちゃんとしましょうね。
たとえばトロッコ問題の回答の一例ね、
うん、だって答えのない問題だからね。
答えはないよね。
それが答えだよね。
じゃあなんで答えがないのかって、情報が不足しているから。
だいたいなんでトロッコが暴走しているわけ?
しかもその先でなんで六人もの人間が縛られているわけ?
縛ったのだれだよ?
縛られている六人もだれだよ?
それがわからないから答えもだせないだけだろ。
たとえるなら、
っていうパソコン初心者がいたとして、
って訊かれたとして、答えは「わかりません」だよね。
情報が不足しているから。
トロッコ問題もこれとおんなじだから。
そこでじゃあ情報を追加するとして、レバーを引かなければ暴走トロッコに轢かれることになる縛られている五人グループが全員自分の家族や知人で、一方単独で縛られているやつが名前も顔も知らない赤の他人だったら余裕でレバーを引いてトロッコの進路を変えるよね。
でも自分がその家族や知人のことを全員殺したいぐらい憎んでいるとしたら進路は変えないよね。
けどその五人グループのなかに自分史上最愛の恋人も含まれているとしたらやっぱり進路は変えるよね。
それだけの話だよね。
トロッコ問題のなにが問題かって、選択や判断のための情報が圧倒的に不足していることが問題なだけ。
だって縛られている六人の情報がなにもない(家族や友人、恋人が紛れている可能性はもちろん、国籍や性別や年齢や職業や家族構成などもなんにも考慮できない)なら、要は縁もゆかりもない赤の他人と変わらないってことだから、そんな他人が何人死のうが知ったことじゃないでしょ?
こういうのさ、知ったことじゃないよね?
綺麗事はやめようぜ。
みんなまず自分や身近な人の生活や幸福が第一だし、自分の人生や仕事と関わりのない名前も顔も知らない会ったこともない他人のことなんか知ったことじゃないよね?
だいたい同じ国に住む仲間や同じ学校や同じ職場の顔見知りが受けるイジメや不正、各種ハラスメントですらいつも見て見ぬふりして見殺しにしているくせに、どうしてトロッコ問題に限って急に悩みだすわけ?
同じ国に暮らす仲間ですら関係なく見殺しにしているんだから、得体の知れない他人がいまからトロッコで五人轢かれようが一人轢かれようが、どっちでもいいよね。
まとめ
まあもちろん、私の答えは綺麗事と建前が大好きな「教育現場」には不向きでしょう。
それにお前らがトロッコに轢かれようが俺の知った事ではないわ
だって全員どうでもいい人間だし
大袈裟に言おうがお前らが死んでもなんとも思わん
それはリアルでの繋がりがないから
つまりお前らに対しての情などない
こんな回答を学校で披露しようものなら、それこそ生徒がショックを受けて保護者からのクレームが殺到、学校は謝罪、私は謹慎を余儀なくされるでしょう。
しかしそのときこそ私はこう思うでしょうね。
私の回答が気に喰わないなら、反論を寄越せばいいだけの話なんですよ。
そこで、
と声高に叫んで被害者ぶって、それで救済される社会ではありませんからね。
学校ではそれで通るのかもしれませんが、社会では通りません。
って私は思いますけどね。
まあでも、私は軟弱な赤の他人が社会に出た途端泣きを見ても知ったことじゃないので、どうでもいいという立場です。
当ブログについても、自分や読者の人生(見識)がマシになるようには書いているつもりですが、自分や読者以外の人についてはどうでもいいです。
当たり前ですよね(「大勢の人をブログで幸せにするのが私の夢です!」とかほざいているキモい綺麗事ブログでもない限り)。
逆に当ブログを読まない人からすれば、当ブログがどうなろうが知ったことじゃないでしょう。
しかし、今回「どうでもよくない」という立場で考えるなら、本案件は教材の選定が下手だったことに加え、生徒が走ることになるレールの構造を教えるフェーズが設けられていなかったのが最大の敗因でしょう。
まったく、先が思いやられますね。
というわけで今回は以上、「トロッコ問題」と教育についての私見でした。
DIS IS THE ANSWER.