嘘。
なにげないとは?
「なにげない」の意味は、「頭空っぽ」だ。
「なにげない毎日」は、「頭空っぽで無意識レベルで考えなしに送っている生活」だ。
なにに対しても気がない、幸福になろうという気さえない。
なのに、幸福を目的に掲げず、幸福について考えずに生きているような人間が、幸福になれるだろうか?
「なにげない一言」でだれかを不幸にすることはあっても、「なにげない毎日」が自らを幸福にすることなどあるだろうか?
なにも考えずに生きてきて、「なにげない日常」のなかで、ふと気づいたら、幸せだった、なんてことがあるだろうか?
あるわけないだろ。
偽りの幸福
もちろん、なにげない毎日や日常を積極的に望み、願いを実現させている人間は幸福だろう。
願望とは幸福の裏返しだ。
人は不幸なとき、その不幸を解決するもの=幸福を願う。
だから願いが叶うことは幸福だ。
ただし、「なにげない毎日」を希望して実現させたんだとしたら、その「なにげない」は虚偽申告であって、じつはなにげなくないというだけだ。
幸福な日々を望み、願い、叶えようと働いた時点で、なにげなくはない。
言い換えれば、この記事で「嘘」だと断じているのは、「気づいた」系の幸福だ。
幸せを諦めて下方修正しただけ。
不幸になってから普通を振り返ってるだけ。
カウンセラー呼べ。
これらは幸福と普通と不幸が上中下なら中か下でしかない。
自分の人生において上中下から上が消えて(いることに気がついて)、中と下しかないから中が幸せだって自分に言い聞かせて、そこに至ってもまだ「なにげない」毎日を過ごしていると、中すら維持できずに下に落ちて、下に落ちてもまだ手を打たないなら、一番下からなにげなく、空を見上げるはめになる。
そりゃそうだ。
なにも見下ろせないなら、見上げるしかないんだから。
それで空の美しさに気づいて、
でも待って。
空なんていつでも空にあったんだから、美しいものを探そうと考えていたら、もっと早くに気づけていたんだよ。
日常だってそうだ。
代わり映えのない毎日を幸福だと考えるなら、もっと早くに気づけてただろ。
何日目だよ、その日常。
初日に気づけ。
遅きに失するってことは、不幸だ。いうまでもなく、もう気づいてると思うけど。
日常か非日常か
たしかに人生はジェットコースターじゃないし、レールは敷かれていない。
けどあっという間に過ぎる。
たしかに人生は花火じゃないし、爆発とかしない。
けどリア充は爆発を願われる。
たしかに人生は音楽じゃないし、ハートビートに展開とかあったら困る。
けどドキドキしなくていいのか?
あっという間に過ぎる人生を、せめて他人の嫉妬を爆発させて、胸を躍らせて楽しみたくはないのか?
まあ、楽しみたくないという意見もあるだろう。
だれもが人生をジェットコースターや花火や音楽のように楽しむ必要はない。
それが「諦め」でなければ、幸せの形は人それぞれだ。
「なにげない」信者であれば、なにげない日常のほうを選択するのもわかる。
「なにげない日常」はあっても、「なにげない非日常」はないからだ。
しかし、なにもしなければ、人生は音楽のように盛り上がりもしなければ、花火のように打ち上がりもしなければ、ジェットコースターのように平坦でもない。
ただ下り坂だ。
気づいたときには健康が損なわれ、知能が衰え、感性が鈍っている。
老化はすべての人に訪れることであり、不快であり、不幸なことだ。
その不幸をより多く穴埋めしてくれるのは、日常か非日常か?
幸か不幸のライン
とはいえ、ZOZOの前澤社長や、AmazonのベゾスCEOじゃあるまいし、だれもが宇宙なんて望めるわけじゃない。
まあ比喩だが、宇宙の比喩は、
このだれも納得しない比較の逆バージョンだともいえる。
なぜ納得しないのかといえば、前澤社長も恵まれない子どもたちも、赤の他人だからだ。
自分とは無関係で、関連性がないからだ。
幸せについて考えるとき、もちろん主人公は自分なんだから、自分の身の丈が正義だ。
そんな他人の感じている損得だとか、幸とか不幸はどうでもいい。
あくまで自分だ。
自分が幸せだと考え、信じることを実践できる日々は、平々凡々でも幸せだろう。
ただ、本当に考えたのか?
自分の幸せについて考えるってことは、自分とは比較せざるをえない。
もっと自分が、楽しみながら、願いを叶え、客観的にいっても、健康体で理知的で、後ろ指を指されるようなことが極力ない、幸せな人生はなかったのか?
日常にかまけ、「アリとキリギリス」でいうところの、アリかキリギリスみたいな人生を送っていないか?
あの虫たちの日常が、どちらも不幸に見えるのは、なぜだと思う?
【寓話】アリとキリギリスはどっちが幸せなのか?
THIS IS THE ANSWER.