ホームレスには厳しい寒さが照りつける11月、私はウイスキー(大麦)が身体を冷やしてブランデー(葡萄)が身体を温めることを知っている。
と思ったけど、どうなんだろう……私がホームレスだとして、いきなり見知らぬ他人からブランデーを手渡されて、はいどうもありがとうって飲めるか?
飲めるとして、はたして、
路上生活は寝袋で寝るより椅子に座るほうが楽?
私が見る限り、そのホームレスがいるときは、いつも椅子に腰掛けている。
そして、起きているのか眠っているのか生きているのか死んでいるのかわからないぐらい、微動だにしない。
最初、私が自転車とキャンプ用の椅子と寝袋を発見したときにも、ホームレスは椅子と一体化していた(擬態といってもいい)。
だから私は、まったく動かない物体を人間だと認識することに失敗していて、
と、ホームレスの姿を視界に収めながら、ホームレスが住み着いているのかどうかを考えていた。
考えながら10秒ぐらい凝視したあと、ホームレスが座っていることに気づいた。
それから数ヶ月経ったいまも、ホームレスはそこに座っている。
いまでも、注意して見ないと、ホームレスの座っている姿がよく見えない。
もはや、椅子がホームレスの一部なのか、ホームレスが椅子の一部なのかがよくわからない。
存在が希薄。
それでも、人間が存在している以上は生きているんだし、生きていくためには温もり……というか、具体的には体温や体熱や熱エネルギーが必要だ。
それで思ったんだけど、
ホームレスが住む世界は悪意と殺意に満ちている
まず、お酒自体が飲めない(体質的にアルコールを受け付けない)とかそういう可能性は一旦置いておいて……。
いくら新品といっても、正確には未開封品でしかないし、客観的には未開封かどうかも怪しい。
ホームレスへのイタズラにそこまでする人間がいるのかといえば、普通にいると思う。
たとえば公共では、
と呼ばれる、ホームレスを排除するための攻撃的なデザインがあふれているし(たとえばホームレスが寝そべらないように、床やベンチに寝転がり防止の突起や仕切りをデザインしたりする。京都風にいえば、「いけず石」)。
また去年2020年には、岐阜県岐阜市の少年たちと、東京都渋谷区の職業不詳男性が、
という動機で、それぞれホームレスの男性と女性を襲撃して殺害している。
さらに今年2021年の東京都でも、
している(ただし、11月28日に報じられたばかりで、本記事執筆時点では詳細不明)。
また今年は、メンタリストのDaiGo氏が、
と述べて、大炎上したことも記憶に新しい。
ソース1:<都市で増える「排除アート>前編 ホームレスの居場所は? – 中日新聞Web – 2021年11月29日閲覧。
ソース2:少年が「遊び」で奪った命の重さ ホームレス襲撃公判へ – 朝日新聞デジタル – 2021年11月29日閲覧。
ソース3:なぜ彼女が… ホームレスの死が問いかけるもの 東京・渋谷のバス停で事件 – NHK事件記者取材note – 2021年11月29日閲覧。
ソース4:歌舞伎町ビル殺人事件 「トー横キッズ」とトラブルか? 40代被害者は“平和テロリスト集団”のホームレス – Yahoo!ニュース – 2021年11月29日閲覧。
ソース5:メンタリストDaiGo「ホームレスの命はどうでもいい」と差別発言。炎上後も「辛口だから」と言い訳 – Yahoo!ニュース – 2021年11月29日閲覧。
人間社会が、こうした「ホームレス排除」を連発しているなら、
程度の、悪意ある差し入れは容易に想像できる。
ホームレスを攻撃しているのが少年(ちなみに過去、神奈川県横浜市でも少年たちがホームレスを殺害している)や男性ばかりなのを鑑みるに、
ソース:横浜浮浪者襲撃殺人事件 – Wikipedia – 2021年11月29日閲覧。
そして、おしっこや精子ぐらいならまだ生温いぐらいで、人体に有毒かつ致死量レベルのなにかが混入されている可能性も否めない。
っていうか、
直接お金をあげればホームレスの救済になるか?
というか、正しくは近くに自販機があったから⇒自販機を利用するアイデアを思いついた。
ホームレスと自販機の距離は、「ピッ」「ガシャンッ」って音が聞こえるぐらい。
これなら、ホームレスは自販機のほうを向いていないけど、自販機からの購入が証明できる……。
けど、私が本当に最悪な性格をしていたら、実際に自販機から購入はするけど、
私はもうめんどくさくなった。
てか近くに自販機があるなら、
最悪、その100円玉とかが偽造通貨でも、ただ使えないだけで警報機能とか通報機能とかはないだろうし。
そうだ、直接お金を渡せばいいんじゃん。
それでホームレスが自分で自販機からドリンクを購入すれば、安全で温かい飲み物が手に入るはずだ(自販機の補充係が最悪じゃない限り)。
現物を差し入れるのと、現金を差し入れるのとでは、大きな隔たりを感じる。
現物には気持ちが込められるけど、現金には気持ちが込められない。
だからたとえば、
だいたい、いくらサバイバル中のホームレスだからって、自販機で購入したドリンクと持参したイタズラドリンクのすり替えを疑うレベルで用心深い人間なんてそうそういないだろう。
それなら、私さえそのすり替えをやらなければ、なにも問題はないのだ。
が、自販機で購入したドリンクと持参したイタズラドリンクのすり替えを疑うレベルで用心深い私はこうも思う。
「不幸中の幸い」が生むのはより深い絶望である
なんだか、すごく哀れに思えてきた(勝手な想像で申し訳ないけど、しかし「李下に冠を正さず」ともいう)。
私にとって前者は論外なので、後者についてだけ考える。
つまり、
この世には優しい人もちゃんといる、人間捨てたもんじゃない、世界は美しい……とか、そんなことを思ってしまったらどうしよう。
残念ながら、世界は美しい部分と残酷な部分があって、ホームレスが直面する現実の大半は残酷だ(人間捨てたもんじゃない? あなたが捨てられているのに?)。
「不幸中の幸い」は、「幸」と「不幸」の比較を生み、「幸」のスパイスが「不幸」を強調する。
もしかしたら、すでに私以前に、だれかがそういう「幸い」あるいは「災い」を与えたのかもしれない。
だからいつまでも、自販機を守株っているのかもしれない。
マジでこれと似たようなことが起きているんじゃないか……。
起きていなかったとしても、むしろそっちのほうが問題で、私がこの1匹目の「ウサギ」になる可能性がある。
そしてホームレスは、隣の自販機でだれかが、
と音を立てるたびに、期待するようになる。
でも世界の大半は、自分のために、
をやるんであって、そのたびにホームレスは期待を裏切られる。
私に奢られるドリンク1杯で得られる幸福と、そのあと裏切られるたびに感じる不幸とでは、どちらの総量が上だろうか?
私だったら、いま胸のうちにある幸せがまもなく空き缶になる僥倖だと勘づいたら、せめてその幸福な気持ちが残っているうちに死んでしまうかもしれない。