日本人が自己主張できないのは、「否定」を勘違いしているから。
~マナー講師の「主張」~
- 主張……否定
- 意見……否定
- 判断……否定
①「自己主張がニガテ」は、「否定がニガテ」です。
②「自分の意見がいえない」は、「否定がいえない」です。
③「自分には判断ができない」は、「否定ができない」です。
- Yes……Noの否定
- No……Yesの否定
ノー否定、ノー主張!
自己主張が上手くなりたいなら、まずは「否定はダメ」を否定しましょう。
では以下目次です。
主張も意見も判断もすべて「否定」
~「主張」は「否定」~
さて、私たちは、ただリンゴの色を口にしただけでもなにかを否定しています。
「あのリンゴは赤い」といえば、「青い」や「黄色い」や、「そもそも梨である」も否定しています。
たった一言、「あのリンゴは赤い」と述べただけで、「赤」以外の色と「リンゴ」以外の存在と「無色」や「無存在」も丸ごと否定しています。
~「意見」は「否定」~
「甘い」ということは、「辛い」も「苦い」も「酸っぱい」も、「無味」も否定しています。
また、「甘すぎ」ということは、「あっさりとした甘さ」とか「ちょうどいい甘さ」とか「甘辛い」とかもまとめて否定しています。
もちろん、「ほっぺたは落ちないよ?」とかいう国語の成績が悪そうな意見も否定しています。
~「判断」は「否定」~
リンゴを「ジャム」にするなら、「アップルパイ」も「焼きリンゴ」も「りんご飴」も否定しています。
「パンに塗って食べる」なら、「カレーの隠し味に使う」とか「うさぎりんごにカットしてお弁当に入れる」とか「りんごジュースにして飲む」とか、「食べられない」とか「捨てる」も否定しています。
また、あるおじさんを「ジャムおじさん」と呼ぶなら、そのおじさんを「バターおじさん」とか「チーズおじさん」とか「アンパンマン」と呼ぶことも否定しています。
- はい
- いいえ
↑この質問にどう答えようと、①「はい」なら、②「いいえ」を否定しています。
②「いいえ」なら、①「はい」を否定しています。
①「はい」や②「いいえ」で答えないなら、①②「二択」で答えることを否定しています。
「自己主張」とは?「他人の否定」
~「主張」は「否定」~
自己紹介を思い浮かべてみてください、他人を紹介をするでしょうか?
自己紹介が、自分で自分を紹介することなら、「他人からの紹介」や「他人を紹介すること」を否定しています。
自己主張や自己紹介は、すべてこう換言できます↓
こうして「他人を否定」し、「私は私である」と主張するところから、自己主張は始まります。
別に他人と同じ意見でもかまいませんし、他人と見解が一致することもありますが、しかし「私は私」である。
自分と他人が同意見だからって、自分と他人が同一人物になるわけではありません。
~視点の違い~
↑私の意見「あのリンゴは赤い」と、他人の意見「あのリンゴは赤い」は、同じ意見でも……。
「私の意見『あのリンゴは赤い』」と、「他人の意見『あのリンゴは赤い』」は、意見の出所も視点も見えているものも違います。
視力も角度も光の当たり方も違うのに、自分と他人の「赤」が同じなわけないのに、それらをすべて省略して「完全に同意」とか「激しく同意」とかいって一体感を得ているだけで、
- 賛成
- 反対
だから、他人の意見に①「賛成」しようが②「反対」しようが、「他人の否定」は常に行われます。
①「賛成」したからって①「同意」したからって①「同調」したからって、「他人の否定」とは矛盾しません。
むしろ、どれだけ頑張って一体化しようとしても、
それはそれ、これはこれ。
それなのに、①「賛成」は「他人の肯定」で、②「反対」は「他人の否定」みたいに勘違いしていると、
しかし、こうして自己主張が怖くなるのは、主張する側だけの問題ではありませんよね。
主張される側が勘違いしていると、②「反対意見」だけを「自分の否定」と受け取ります。
そして、勘違い野郎が怒ったり不機嫌になったりするのを見て、主張する側も萎縮してしまいます。
「反対意見」が「自分の否定」か?
「自分の存在」なんてものは、そもそも「他人の存在」によって否定されています。
あらゆる存在は、存在するだけで他者にこう主張しています、「私はあなたとは違う」。
元々違う存在同士、否定し合っているのに、意見の相違を認知して始めて「自分が否定された!」と怒ったり不機嫌になったりするのはバカ以外の何物でもありません。
「バカにバカっていっちゃダメ」的な、バカを怒らせないためだけに強いられる負担です。
そのバカが怒るのはそのバカの問題であって、そのバカが自力で自己負担で自己解決すれば良い。
そのバカが自分で勉強して賢くなれば解決する問題なのに、なぜ「他人」である私がそのバカの問題に取り組まなければならないのか?
他人なんて、否定してナンボでしょ?
それが自分という存在です。
そして、お互いの存在も意見も根本的に否定し合ったあと、それでもお互いに理解や共感を示すことはできます。
- 賛成
- 反対
①「賛成」ならそのままくっついていればいいし、②「反対」でも別に排除したり絶交したりする必要はありません。
②「反対」したからって②「反論」したからって「対立」したからって、「意見の尊重」とは矛盾しません。
むしろ、他人を排除しようとすればするほど、他人にとっての「他人」、
「気に入らない他人は排除しよう」というのは、「他人にとって気に入らない自分は排除しよう」といっているのと同じです。
だから、①「賛成意見」は「尊重すべき仲間」で、②「反対意見」は「排除すべき敵」みたいに勘違いしていると、
周りを①「イエスマン」で固めたせいで、だれも②「警告」「忠告」「苦言」を呈してくれず、重大な失敗を引き起こしたバカは大勢います。
彼らお馬鹿さんは、②「反対意見」⇒「排除すべき敵」を排除したのではありません。
②「反対意見」⇒「改善できたはずの自分」を排除し、お望み通り排除されたのです。
まとめ:バカには自己主張できない
- 「主張」も「意見」も「判断」も、あらゆる主張はなにかを「否定」している
- 「自己主張」とは、「他人の否定」であり、「私」は常に「他人」を否定する
- 「意見の否定」だけを「自分の否定」と受け取るバカに合わせる必要などない
以上です。
もちろん本記事の主張も、たとえば冒頭のマナー講師を否定し、反対意見を述べています。
しかし、反対だからといって、このマナー講師を完全に排除してしまうと、
実際、そうやって殺されていった賢者はいます(『韓非子』とか『君主論』あたりに書いてあります)。
一方で、
結局、マナー講師に賛成しようが反対しようが、なにかには反対することになるという例です。
そして、否定に否定を重ねた上で、どの否定を選ぶかが自己主張となります。
私だったらこう主張します、つまり同じ自己主張でも、相手によって自分の処遇は変わるんだから、
周りをイエスマンで固めたバカの例のように、バカは勝手に滅んでいればいいんだし、わざわざ反対意見を述べて助けてあげる必要はありません。
そして、「自分と他人は違う」「違う意見でも尊重する」ができる人間とだけ付き合い、伸び伸びと自己主張をすれば良い。
以上、自己主張のコツは、まずは「バカと縁を切る」環境作りでした!
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