ダチンコとはいってもナカマ××とはいわない。
友達とは?
ごめんなさい、真面目に考えます。
まず、「友達」という字を見て、私は二通りの成り立ちを連想しました。
- 「友」に「達する」と書いて友達。
- 「友」に複数形の「達」を加えて友達。
実情を鑑みれば、後者はないですね。
といった用法は自然にありえます。
よって私は、友達のことを、「友に達した人」のことだと捉えます。
まずこの点で、「仲間」よりはハードルが高い。
が、まだ友達ではない。
たまたま学校という環境で、同じクラスに配属されただけで、「友」には到達していないわけです。
では「友に達する」とはどういうことか。
つまり、自分と「共」に過ごしている人は、やがて「友」に達します。
その距離感や、友に達するまでの時間は人それぞれです。
この場合は、人と人との距離、物理的な距離が関係しています。
しかしもちろん、心を通わせることができなければ、友には達しません。
自分が生徒だとして、座席は教室の一番前、目の前には先生の席や教壇があり、先生がいつも近くにいる……そういった状況でも、先生と生徒の心には、見えない一線が引かれていることでしょう。
年齢の違い、立場の違い、意識の違い、そういった要素が絡み合った線です。
その一線を乗り越えるのは、難しいはずです。
ゆえに、先生と生徒は仲間になるのは簡単ですが、友達になるのは難しい。
そうして、物理的に、精神的に、距離を縮めることのできた人たちが、友達になります。
もしも自分とだれかが友達なのかどうか、疑問に思う場合は、その時点でまだ友達ではなさそうです。
自分は相手と近すぎないか、遠すぎないか、相手は自分に近づこうとしているのか、遠ざかろうとしているのか、よく観察し、行動してみるとわかるかもしれません。
仲間とは?
次は「仲間」について考えていきます。
まず「友達」の項目で、「友達」は「仲間」よりハードルが高い、と述べましたが、それはあくまで関係が成立する難易度の話です。
逆も然りで、そこはケースバイケースです。
では仲間とは?
共通の目的意識を持つ、または利害が一致する、協力関係、だと私は思います。
問題を共有し、協力者は全員利益を得る。
ゆえに学校のクラスメイトは、仲間だといえます。
「友達」と大きく違うのは、物理的、精神的問わず、距離が問題にならないことです。
そしてもし、お互いに困難な問題をクリアして、喜び合うことができれば、その絆は凡百の友達関係よりも強力になるかもしれません。
したがって、「遊び友達」と「遊び仲間」といった、辞書を引くと同一視されている言葉がありますが、私は明確に区別が可能だと思います。
それぞれ例をだしましょう。
「遊び友達」は、目的があってもいい、なくてもいい、利益も度外視、行き当たりばったりでも遊べてしまう友達。
一方で「遊び仲間」は、なにをして遊ぶのかがだいたい決まっていて、その遊びが有益だったり、協力関係を強化する狙いがあったりする仲間。
ですから、その遊びが「接待」である場合などはもちろん、「友達」ではなく、「仲間」のほうですよね。
漫画「ワンピース」のルフィたち、麦わらの一味だって、共通の目的や利害関係があるからこそ、「仲間」なのです。
まとめ
私の見解では、
- 「友達」は共に過ごして距離を縮め、築いた関係
- 「仲間」は共通の目的や利害により、築いた関係
です。
ただ、ここでちょっと衝撃的なんですが、念のため手元の国語辞典を引くと、
ともだち【友達】
ソース:岩波 国語辞典 第七版 新版 – 株式会社岩波書店
勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。友人。
なかま【仲間】
ソース:岩波 国語辞典 第七版 新版 – 株式会社岩波書店
心を合わせて何かをいっしょにするという間柄をかなりの期間にわたって保っている人。そういう間柄。「―の面倒をよく見る」「遊び―」
って書いてあるのを見つけてしまいました……。
まあ……私は見なかったことにします。
みなさんは私か国語辞典か、信用できるほうを採用してください(敗北確定)。
以上。
THIS IS THE ANSWER.