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【最期に】安楽死や尊厳死を望む人がいるのは自然なこと

安楽死と尊厳死の違いについては、そもそも日本では安楽死が法制化されていないのでなんともいえませんが、病気や事故によって人生に絶望したとき、

  1. 安楽死は致死薬によって命を断ち切る。積極的安楽死。
  2. 尊厳死は治療を打ち切って絶命を待つ。消極的安楽死。

だそうです。

しかしそんなことはどうでもよくて、当記事では安楽死も尊厳死も、


安楽死
理由はなんであれ、安らかに楽になりたいと思った人が死ぬ権利

とします。

で、それってすごい自然なことだと思うんですよね。

※当記事は安楽死を推進したり推奨したりするものではなく、安楽死を望む方がいたとして、それって自然なことじゃないの? という考察を述べるだけです。

人間は不自然に生きすぎた

さて、当ブログでは、【婚活】結婚相手に自分の介護を求めている人は失敗しますや、【美容】整形の成功パターンと失敗パターンとその対策!などでも述べているとおり、


自然破壊
人間は不自然な生き物です(あるいは、人間の存在や自然破壊も含め、あらゆるものを自然とするか)。

という見解であり、どちらかといえば人間が不自然な生き物であることを肯定的に捉えています。

とはいえ、作為的な出会いや整形を嫌う人がいるように、人間は自然を愛し、自然に生きたい生き物でもあるということも理解できます。

では「自然に生きる」とはどういうことか。

子孫繁栄のために生きることです。


世代交代
自然に生きる鳥や虫や動植物と同じように、子どもや孫、つまりは自分を継ぐ者を作り、命のバトンを渡すことです。

そしてさっさとこの世を去ること。

なぜなら出産や育児、後進の育成を終えた老体や、その見込みがない人間は、それ以上子孫を繁栄させることができず、なのにこの世に残り続ければ、子孫の食い扶持を奪い、子孫の繁栄を妨げる結果に繋がるからです。

リレー競争で、バトンタッチを終えた走者がコースアウトせず、次の走者にしがみつき、いつまでも足を引っ張っていたら不自然極まりないですよね。

せっかく自分の子どもにバトンを渡したのに、その子どもや孫を苦しめて曾孫が生まれなくなれば、リレーが途絶えるわけですから、本末転倒です。


現代日本
しかし現代の人間は、そういう生き方をしています。

次世代の役に立たなくなった人間でも、自分の子どもや孫の世代に多大なる負担、生活費や医療費や介護費を負担させ、本来であれば寿命であるはずの年齢を迎えても、生きながらえることが可能です。

そうして不自然な生き方を余儀なくされている人間が、負担させる側もする側も、多すぎませんか?

ここでいう不自然とは、子孫の繁栄に寄与しないという意味です。

ではなんのために生きているのか?

不自然な生き方に意味を見出せず、薬漬けの医療や現役世代の介護奉仕、野生なら終わりを意味する生活能力の欠如、重大な病や怪我、心の傷、絶望を背負ってでもなお生き続けることに意味を見出せない人間は、どうすればいいのか?

自分が不自然に生き続けることで、自然に生まれてくるはずだった命の誕生さえも断念させるかもしれません。

そのことに気づいた当事者が、自らのコースアウトを望むとして、その選択は自然の摂理に適っていませんか?

なにをして生きるのか

そもそも人間は永遠には生きられません。

将来的にはわかりませんが、いまのところ不老不死の夢は夢のまた夢のまた夢のまた夢です。


還元
どれだけ不自然を愛したところで、最期は自然に還る運命。

であれば、自分だけの生に執着することが、どれだけちっぽけで無価値な、意味を見出すことが困難な作業であるかはわかりそうなものです。

しかしそこで、自分だけではなく、自分の次を担う子どもや孫、子々孫々に目を向ければどうでしょう。

自分だけの生であれば、せいぜい百年かそこらで潰えます。

が、自らが育んだ生命もまた、自らの生のうちであると考えれば、なかなか潰えることはありません。

自分の生きている意味がわからなくなる人間は、自分のちっぽけな人生だけに絞って意味を求めるから意味不明なことになるのであって、自分を継ぐ人生があるということを考えれば、自ずと自分が生きる意味、そしてその逆の使命も見出せるのではないでしょうか。

そこに意味を見出せるからこそ、たとえば日本の高齢者などは、


日本の高齢者
いまの豊かな日本を発展させたのは高齢者の功績

と、誇らしげに語るのではないでしょうか。

ただし、そこまでは正しいとして、よくセットで語られるのが、


日本の高齢者
だから若者が犠牲になっても、高齢者は優遇されて然るべき

という意見ですが、これは矛盾していますよね。

「日本を発展させた」ことを誇るのであれば、日本を衰退させるような真似は慎むのが道理だと思います。

どれだけ社会貢献をしたところで、最後にぶち壊しにするのであれば、結局は貢献なんてなかったと見なされます。

どんな人間であれ、晩節を汚せば、すべて台なしです。

立つ鳥跡を濁さず

さて、ここまで、結構慎重に書いてきたつもりですが、最後に明言しておきます。

当記事では、自然に生きることを子孫繁栄だと定義しましたが、イコール杉田水脈議員の如く、自分の子どもが産めない人間は生産性がない、と断じるものではありません。


師匠
自分の子どもが産めなくても、自分を継ぐ人間は育成できます。

そもそも子孫繁栄というなら、自分だってだれかの子孫であり、では自分がだれの子孫であるかということを考えれば、まあ全貌はわかりませんが、人類みな家族、いや生物みな家族的な見方もできるのではないでしょうか。

だとすれば、別に育む対象が自分の直接の子孫である必要はなく、というか人間である必要すらなく、そのへんの自然に生きる鳥や虫や動植物、数多の生命でもいいのかもしれません。

ただ、それでも……どこまで拡大解釈しても、もう自分にはなにもできることがないし、したいこともない、それなのに、だれかが自分のためにしなければならないことが多すぎる、自分がだれかのためにしなければならないことが多すぎる、しかも不自然で、多大な犠牲が払われている、といった現実に納得できないとき。

最後の使命として、自然に羽ばたく鳥のように、跡を濁さず飛び立ちたいと願う人がいることは、ごく自然なことだと思います。

THIS IS THE ANSWER.

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