梅雨の季節、私は月間50キロメートルのジョギングノルマを達成するために、どうしても走らなければいけなかった。
1
といっても「土砂」は降っていないわけだけど、土砂が降っていたとしても、全部水で洗い流せる程度には水が降っていた。
しかし私が選定したジョギングコースは、繁華街を外れて人通りも車通りも少なくなる。
接触事故の心配がないという意味では、快適そのものだった。
が、繁華街から外れるということは、明かりも少ない、足下が暗くて見えない。
マジ終わってると思った。
ほとんど地雷原だった。
水たまりが多すぎる。
しかも全部深い。
それで私のランニングシューズのなかにも水たまりができて、私は走る水難事故。
でも怒りに熱くなることはなかった。
私は雨という天然の冷却装置と一体化して、極めて優秀な水冷エンジンだった。
私は冷静に水難事故を嘆いた。
犬のうんちを放置する飼い主は間違いなく人間だから、人間の愚かさも嘆いた。
だって、
- 犬がうんちをする
- 地面にうんちが付着する
- 飼い主がうんちを回収する
- 地面に付着したうんちは完全には拭いきれない。
もし地面に付着したうんちまで完全に回収して洗浄している飼い主がいたら申し訳ないけど、私はそんな飼い主を見たことがない。
しかし私は冷静な水冷エンジン、犬とその飼い主だけを悪者扱いしても仕方がないことをすぐに理解した。
結局は水たまりも水たまりの水質汚染も、大いなる生理現象と自然現象の一部にすぎない。
一番愚かなのは、世界を自分中心で捉えて嘆いていた私だった。
2
どこまで走っても雨が私を追いかけてきて、水が私を濡らして冷やしてくれる。
私は段々雨に好意的になってきた。
恵みの雨かもしれないと思った。
物理的に前に進んでいるから、精神的にも前に進めるのだ。
だから相変わらず視界は雨でぐちゃぐちゃだったからうっとうしいことこの上なかったけど、それより夏だというのに走っても走っても身体がひんやり気持ちよくて走りやすいという感想が勝る。
私はこのアクティビティを楽しもうと思ってふと考えた。
映画やドラマで雨を降らせるのとはわけが違う。
私はこのジョギングで10キロメートルは走るし、クールダウンで数キロ歩く。
つまり最低でも私の半径5キロメートルにはまんべんなく水を降らせる必要がある(私が走っているのは公園の周回コースとかではなくて、街中だから)。
さらに最低でも3時間は水を降らせ続ける必要がある(スタート前から水たまりスポットが大量に出没していないといけないから)。
しかも利用料金を支払うのは私ひとりである(私以外に土砂降りジョギングを楽しんでいる人間は見かけなかったから)。
と私は思った。
こんなに贅沢な水が降って湧いたことのありがたみを感じていた。
そして耳の奥から靴底まで土砂降りで埋め尽くされても、帰宅すれば雨風がしのげる家でお風呂に入って汚れを落として清潔な衣服と音楽に囲まれることのできる贅沢さも感じていた。
「贅沢」とは選択肢の多さや経験の豊富さであって、