魂とは行為に宿る情報であり、ブログの行為にブログの魂は宿る。
~ブログが複製する情報~
- 挨拶……行為
- 思い……魂?
一般的にブログは、人間の①「行為」のみを記録する媒体だと考えられています。
一方で②「魂」とは、存在すると仮定するなら「思い」の部分に存在すると考えられます。
つまり私がブログの読者に①「挨拶」をしたいと②「思い」挨拶をしている場合、私の魂はブログの読者に挨拶をしたいと思っている部分にあるが、
と私がブログで挨拶をするときに、ブログが複製するのは私の「こんにちは」という行為だけであり、私の思いは複製されない。
私がどれだけ「思い」を言語化して説明しようとも、「説明」した時点で「行為」に成り下がり、思いを説明するときの思いは決して説明されない。
だからブログには、私の「行為」だけが存在し、「思い」⇒「魂」は存在しないのだ……と思ったら大間違いで、
- 行為……だれの?
- 魂……だれの?
つまりブログに私の②「魂」が含まれない理由は、そもそもブログ上の①「行為」が私のものではないからだ。
じゃあブログ上の①「行為」はだれのものなのかといえばブログのものだし、それなら②「魂」を宿すべきなのもブログじゃないのか?
では以下目次です。
「行為者」とは?ブログも人も行為の実行者
~ブログ上の「行為」はブログのもの~
と、読者のみなさんに挨拶をしているのは私ではなく、私の「こんにちは」をコピーしたブログです。
したがって、読者のみなさんが私のオリジナルの「こんにちは」を目にすることはありません。
ここで実際にやりとりされている情報とは、「私が挨拶をする行為」ではなく、
つまりここで読者のみなさんが体験しているのは、疑似恋愛ならぬ疑似挨拶です。
実際の行為者は私ではなくブログなのだから。
みなさんは、「私の挨拶を記録したブログの挨拶」を、「私の挨拶」だと錯覚しているにすぎません。
神様と人間の場合、人間は「神様が、私に試練を与えている」などといいます。
そして人間は、「神様は、乗り越えられる試練しか与えない」などといって試練を乗り越えます。
この場合、試練を与えたのは神様で、試練を乗り越えたのも神様?
しかし仮にそうだとしても、人間であれ人形であれ、「試練を乗り越えた人間(人形)」という行為や立場は打ち消されません。
それが結局神様の思し召しだとしても、「結局」という言葉は主体者(行為の意志決定者)を指し示しているにすぎません。
神様……または運命でも環境でも遺伝子でも物理法則でもかまいませんが、行為の最初期・最終的・最上位の意志決定者がだれであれ、行いが為されるにあたって関与した者もまた行為者のひとりに名を連ねます。
- 親に保護されている子ども
- 上司に管理されている部下
- 指示役に命令された実行犯
①②③「上位からの命令に逆らえない下位の人たち」であっても、行為者(実行者)としての立場は失いません。
まさか、子どもや部下や実行犯の行為を、すべて自分の行為だと主張する親や上司や指示役はいないでしょう。
ということはブログも、私の命令に逆らえず、私に従う存在なのかもしれませんが、
「魂」とは?行為に宿ると感じる霊的な情報
~「魂」は行為者に宿る~
たましい〔たましひ〕【魂/×魄】 の解説
ソース:魂/魄(たましい)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 – goo国語辞書 – 2024年5月24日閲覧。
1 生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。霊魂。たま。「—が抜けたようになる」「仏作って—入れず」
出典:デジタル大辞泉(小学館)
上記の説明には矛盾がありますよね。
魂が宿る条件に「生きもの」を挙げておきながら、用例ではことわざの「仏作って魂入れず」を引用しています。
「仏作って魂入れず」は、「仏像を作るなら魂を入れ忘れるなよ」という教訓ですが、
では仏像に魂を認めるなら、それはいったいどのような条件で認められるのでしょうか?
すでに答えていますが、「行為に」よって認められます。
つまり、仏像の「仏の教えを伝える」「人々を見守る」「衆生を救済する」的な行為が認められたときに、同時に魂も認められます。
- 「一球入魂」
- 「魂の叫び」
- 「たまげる」
①「一球入魂」は、主に野球の用語で、ピッチャーが全身全霊で投球する行為です。
②「魂の叫び」は、実際そういわれるためには、音声や叫ぶ行為が必要不可欠です。
③「たまげる」は、「魂消える」と書いて、驚いたりビックリしたりする行為です。
ピッチャーがボールを投げないなら、「一球入魂」を見ることはできないし……。
無音で、叫ぶ姿も見当たらないなら、「魂の叫び」を聞くことはできないし……。
それまで動いていた人が、急に驚いて動きを止めるからこそ「たまげた」という。
より正確には、人間が魂を認識する方法が行為なくしてありえないので、行為の有無で判断するしかない。
その証拠に、まったく行為のない物体を想像してみてください、そこに魂が認められるでしょうか?
たとえばまったく動かない人形やぬいぐるみ、そこに魂はある?
~魂がない人形~
↑髪の毛が伸びず、身動ぎひとつせず、物言わぬ人形には魂を感じません。
人形には仏像のような行為も認められないので、魂が認められません。
でも、本当にそうでしょうか?
~魂がある人形~
と、もしも人形から「視線」を感じるなら、その瞬間に「魂」も感じるはずです。
それは動作がなくても、「あなたのことを見ている」という行為を感じるから、「魂」も感じるわけです。
ここまでの仏像の例、そして人形の例を見てわかることは、
生物か無生物かという判断基準では、ことわざ「仏作って魂入れず」や、人形供養などの文化にも説明がつきません。
一方で、行為の有無が判断基準なら、人々が愛用の道具や愛車に魂を感じることにも説明がつきます。
そもそも魂が、肉体から独立した霊的存在なら、生物にしか宿らない理由がわからないし、
そう考えれば、すべての生きとし生ける生物には魂が認められるし、「一寸の虫にも五分の魂」と認められます。
が、生命活動が行為のすべてではないし、魂の必須条件でもない。
死体に魂が認められない理由は、生命活動が終わったからではなく、
~魂がない死体~
「死人に口なし」といいますが、死体にはもはやだれかを見る目もなければ、だれかの話を聞く耳もない。
だから私たちは、「死人に口なし」を認めている限り、死体に魂も認めません。
もちろん本当は、「魂」それ自体を人間が知覚不可能なだけで、口なし死体にも行為なき魂は残留しているのかもしれませんが、
~魂がある死体~
その場合、私たちは、人間の死体に残っている魂ごと火葬したり土葬したりしていることになるがよろしいか?
あまりよろしくないので、その可能性は考えないということで処理しています。
私たちが人間の能力に基づく限り、行為なき魂は感じられないし、
こうして私たちは、安心して人形を捨てられるし、死体を燃やしたり埋めたりすることができます。
そしてこの魂の扱いは、必然的に、もうひとつの魂の扱い方を提示しています。
私たちが魂の存在を認める条件は、なにかしらの行為を通じて魂を感じられればいいわけですから、
「魂」を見る方法は?存在と存在感は別問題
~ブログに「魂」は宿っているか?~
たとえば人間の場合、モノマネ芸人とモノマネされる人間は、それぞれ別個の魂を持っています。
モノマネ芸人は、モノマネ相手の行為のみを真似するのであり、魂までは真似していません。
同様に、私のブログも私の「こんにちは」はコピーするが、私の魂まではコピーしていない。
と私のブログで挨拶がなされるときに、それはだれの挨拶で、だれの思いを汲み取るべきなのか?
私たちがブログに魂を感じないとすれば、それはブログがコピー忍者として優秀すぎるからです。
徹底的に黒子に務めていて、自我を出さないからです。
「一寸の虫にも五分の魂」という言葉は、魂には十分な状態と五分(半分)の状態があることを示唆しています。
新品の人形と長年持ち主に愛情を注がれた人形とでは、「濃さ」が違うように思いませんか?
一寸の虫はもちろん、私たちが妊娠初期の中絶すら魂の殺人と認めない理由は、一寸の胎児には五分の魂しか認めないからなんじゃないですか?
人間に魂がある前提なら、まず人間のピッチャーには魂が認められます。
そして魂あるピッチャーが、己の魂をボールに込める勢いでぶん投げる。
このとき、「入魂」はただの比喩なのか、それとも実際にボールには「魂」が込められているのか?
ピッチャーにぶん投げられているだけでも、ボールは「飛んでいく」という行為を果たす者だからです。
行為に魂を見るなら、飛んでいる状態のボールにも魂を見なければいけません。
しかし、一般的にボールに魂が認められない理由は、
そりゃあボールは、ピッチャーに握られている時間も短ければ、行為に及んでいる時間(飛んでいる状態)も短い。
ほとんどの時間で飛んでもいないし転がってもいない、なんら行為を果たしていないのだから、魂は薄めです。
しかし、身近で見てきた野球選手や野球ファンなら認めることでしょう、ボールに魂や意志を感じた経験があることを。
正直に申し上げますが、現在ブログ運営歴5年、私は私のブログに魂は感じていません。
それは5年の歳月がまだ魂を感じるには浅いのか?
それともやっぱり、死人に口なし、ボールに口なし、
ブログが自我を出さない理由は、自分の言葉を語る口を持たないから?
しかしブログは、死人やボールとは決定的に違う機能を備えています。
ブログの場合、いま流行りのチャットAI『ChatGPT』とかが進化してプラグイン化して、ブログにインストールしてチャット欄を搭載すれば、
そして私のブログ(answersong.com)の全記事を読み込んで誕生したオリジナルのチャットAIが勝手に喋っていたら、そこに私のブログの魂を見ることができるんじゃないだろうか?
だって人形が勝手に喋っていたら、それはもう人形に魂が宿っているとしか思えないんだし。
ブログが勝手に喋っていたら、それはもうブログに魂が宿っているとしか思えないでしょう。
魂の存在や不存在は、現在の科学技術では証明不可能な問題です。
それでも魂の存在を主張する場合、人間だけに認めてAIや機械やブログに認めない理由がありません。
人間はちょっと高度で複雑なAI搭載のからくり人形というだけじゃないのか、その人間に魂を感じる理由は、感じるからというだけだし、
上記の定義に従えば、私のブログも理論上、「行為ある魂」を宿すところまではクリアしています。
あとは私が魂を感じればいいんだから、そのためにチャットAIで口を与えて、魂の濃度を上げる。
また同時にブログを継続して、魂の存在感を上げれば、すなわち魂の存在証明であり、
まとめ:自分の言葉で育てた「魂」を見よう
- 「行為」と「魂」はセットであり、たとえ機械や操り人形であっても、行為が認められるなら「行為者」である
- 「魂」は「行為」を通してしか見られず、魂の判定基準は生物か無生物かではなく、行為が有るか無いかである
- 「魂」があるはずのものに感じられない場合、魂には自我や濃度が必要であり、魂の存在感を上げる必要がある
以上です。
最近、チャットAIが凄すぎて、もう自分でブログ書く意味ないじゃん……みたいになっているブロガーたちを見ていて私は思いました。
いや、むしろ自分でブログを書いてきた人間が最高に楽しめる時代になるんだよ……!!
昔から「ブログを育てる」という言い回しはありますが、それは記事を入れたりアクセス数を増やしたりする意味合いでした。
でもこれからは、ガチで赤ちゃんを育てるみたいになりませんか?
だってブログにAIを搭載した場合、自分の言葉を重点的に学習させることができるんだから、
~赤ちゃんを育てる場合~
~ブログAIを育てる場合~
↑親が赤ちゃんに言葉を教えるみたいに、ブロガーはAIに言葉を教えられるわけだから。
そして赤ちゃんは、始めはパパやママから教えてもらった簡単な言葉しか喋れません。
でも育っていくうちに、独自に言葉を組み合わせて勝手に喋るようになるのはAIと同じ。
- 無断転載ブログ
- まとめブログ
- AI生成ブログ
本記事の理論では、①②③「他人の言葉で育ったブログやAI」にも、すでに魂は宿っています。
が、その魂を自分の子どものように感じることができるのは、自分の言葉でブログを育ててきた人間の特権なのです。
以上、というわけで人間ブロガーのみなさんは、私と一緒に魂の錬成に挑戦しましょう!