人間はひとりでは生きられない、とよくいいますが、
ということが気になったため、実際に起きた事件を基に考えるというか、事件が起きたから気になったというか、とにかく考えていきましょう。
ちなみに無論、法的には無関係です。
が答えです。
では以下目次です。
飛び降り男子高校生の巻き添えで死亡した女子大生
2020年10月23日、大阪梅田の複合商業施設、HEP FIVE(ヘップファイブ)10階建ての屋上から、
しました。
飛び降り自殺だと見られています。
その際、飛び降りた男子高校生がその下を歩いていた女子大生と衝突し、女子大生も死亡しました。
ソース:大阪・梅田の転落男子高生 鍵壊し屋上へ…巻き添え女子大生も死亡 自殺とみて捜査 – Yahoo!ニュース – 2020年10月31日(土)閲覧。
死亡した女子大生は、買い物のために知人と歩いていたとか、友人と待ち合わせをしていたとか、報じられ方に微妙な差異はありますが、
です。
繁華街を出歩いていたら、空から男子高校生が降ってきて、巻き添えとなりました。
死亡した女子大生には、なんの落ち度も見当たりません。
ふたりはおそらく、面識もなかったでしょう。
ふたりの関係性を一言で言い表せば、
だといえるでしょう。
さてしかし、そこに一石を投じるツイートがありました。
境野今日子「一人で死ね、じゃねーよ」が炎上
「こんな時間帯に迷惑」
「1人で死ね」
「人巻き込むなよ老害」
とかこんなコメントばっかり
自殺を図ったご本人のことは無関心、
それどころか批判ばっかり
そういう世の中が、
人を生きづらくして、
追い詰めてしまうんじゃないの?
一人で死ね、じゃねーよ
上記は、2020年10月23日の夜に呟かれたツイートです。
「飛び降り自殺のニュース」というのは、前述した男子高校生の転落に女子大生が巻き込まれた事件を指しています。
「老害」と「男子高校生」が矛盾しているのは、飛び降りた男性の年齢が曖昧な時点で騒いでいた人たちの醜態が記録されているにすぎないため、以降スルーします。
さて、上記のツイートは賛否両論を巻き起こし、炎上しました。
本記事執筆時点で、いいねとリツイートはどちらも1万件を超えています。
否定派の論調はもちろん、
といったコメントに同調するものです。
ここで賛否を論じるにあたり、重要な論点は、
であると私は考えます。
仮に飛び降りた男子高校生とその下を歩いていた女子大生が本当に無関係だとすれば、
という意見は、至極真っ当な反応であると考えられます。
だれだって、自分とは無関係の他人に人生の邪魔をされるのは嫌でしょうからね。
さてしかし……この人間社会で、「無関係」は成立するのでしょうか?
「人間は一人では生きられない」という言葉の意味
と、よくいいます。
実際のところ、私はひとりで生きたことがないので本当かどうかは知りませんが、
という実感はあります。
私は、
- 両親から生まれ、
- 両親に育てられ、
- 親戚に育てられ、
- 地域に育てられ、
- 先生に育てられ、
- 家族に囲まれて、
- 親戚に囲まれて、
- 友達に囲まれて、
- 親友に囲まれて、
- 同僚に囲まれて、
- ありとあらゆる他人に囲まれ、
- 他人が作ったものに囲まれて、
生きています。
そこには直接間接問わず、関係があります。
ではその「関係」は、どこまで広げることができるのか?
- 私が持っているAppleのiPhoneはアメリカ人が作ったもので、
- 私が持っているSAMSUNGのGalaxyは韓国人が作ったもので、
- 私が持っているHUAWEIのnova liteは中国人が作ったもので、
- 私が持っているASUSのノートPCは台湾人が作ったものです。
- 私が最近観た映画『バーフバリ』シリーズはインド人が作り、
- 私が最近買った服はイタリアのファッションブランドが作り、
- 私が最近買ったシューズはドイツのスポーツメーカーが作り、
- 私が最近ウーバーイーツした肉はたぶんブラジル産の肉です。
さらにはそれらの下請けや工場や運送や販売などに関わった人たちのことを考えると、私は本当に世界中の人々と関係しているといえます。
ましてや、
でしょう。
一言でいえば、
なのです。
では、私が前述の女子大生と同じ目に遭ったとして、私は本当に男子高校生と無関係であるといえるのでしょうか?
自分が自分と無関係の他人に殺されることは不可能
事故かもしれませんし、事件かもしれません。
報じられているとおり飛び降り自殺の線だとして、
しかしいずれにしても、私は他人の自殺に関係しているといえます。
なぜなら、いずれの理由にしても、私はそれの存在を容認しているからです。
私はこの人間社会から、
- イジメも、
- 虐待も、
- 貧困も、
- 格差も、
- 差別も、
- 戦争も、
- 自殺も、
なくならないと思っています。
私はその現実を見ながら、そういう現実社会を維持して生きています。
まあとりあえず、いろいろな問題はあるけれど、
というわけです。
環境を変えることに比べれば、自分を変えることは簡単だからです。
成功哲学の基本中の基本に、
と、あるとおりです。
「他人」を「環境」に置き換えても同じことでしょう。
しかし世の中には、必ず、環境に適応できない人間もいます。
環境に適応できなかった人間は、自殺を選ぶこともあります。
自殺を選んだ人間は、他人を巻き添えにすることもあります。
全部わかっているはずです。
なら、
という疑問が生じます。
この人間社会が存続していく限り、必ず犠牲者は生まれます。
その「犠牲者」の存在を黙認しておいて、
なんて空想は虫が良すぎますよね。
ですからそんな空想は、「現実」にあっさりぶち壊されます。
いくら私たちが空想の上で、
こともあるわけです。
私たちが本当に「他人」と「無関係」なのかを考えたとき、そう断言できるのは、人里離れた山奥とかにひとりで住んでいる仙人ぐらいではないでしょうか。
まとめ:あなたも私も社会の一員で社会現象の一因
- 自分が自分と無関係の他人に殺されることは不可能
- なぜなら、私たちは社会の構成員という間柄だから
- 私たちがふれあえることこそが、関係している証拠
です。
そして成功哲学の基本ですが、繰り返します。
です。
したがって、
と、いまから死ぬ他人を変えようとしても、望み薄でしょう。
これから死ぬ人間からすれば、
- 他人を道連れにしようが、
- 他人に迷惑をかけようが、
- 他人から責められようが、
知ったことじゃないでしょうからね。
じゃあどうするのって、
たとえば他人の自殺に巻き込まれたくないのであれば、自殺者を減らすような社会活動に参加する。
自殺者が減れば、当然自殺に巻き込まれるリスクも減ります。
どちらに転ぶかは、社会の一員であり社会現象の一因である私たち次第です。
以上、THIS IS THE ANSWER.