作品に罪はない、なんて当たり前。
~これまでのあらすじ~では、その「罪」を捕らえて罰しますので、屏風から出してください。
- アドルフ・ヒトラー
- 牟田口廉也
- ウラジーミル・プーチン
私たちが、いまでも「ヒトラー」「ヒトラー」連呼しているのは、「罪と人」がセット評価だからです。
では、「罪を憎んで作品を憎む」とか、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的に考えれば、
ヒトラーの著作『我が闘争』や、ナチスのシンボル「ハーケンクロイツ」も、ヒトラーとセット評価か?
「作者」が罪を犯したとき、「作品」も処分されるべきか?
否、「作品」に罪はない!!
みたいな議論がありますよね。
はっきりいって、的外れです。
「作品に罪がある」⇒「作品が処分される」ではないからです。
「罪を犯した作者への制裁」⇒「作品が処分される」。
その証拠に、「罪」を語るときに「人間」は必要ですが、「作品」は不要です。
この世界が、「作品」だけになれば、「罪」も「罰」も存在しないでしょう(ドストエフスキー『罪と罰』は存在するでしょうが)。
というわけで本記事では、「罪と人」は切り離せないけど、「罪」と「作品」は切り離せるってことを解説します。
では以下目次です。
作品に罪はある?作者に罪があるから作品ごと罰する!
そもそもなぜ、「作品に罪があるかないか」論争みたいな、意味不明な議論が巻き起こるのか?
「作品」を主体に、「罪」を考えるからです。
- 罪があるなら、罰を受ける
- 作品に罪があるなら……作品に罪があるのだから、作品が罰を受けるべき
- 作品に罪がないなら……作品に罪はないのだから、作品は罰を免れるべき
こうした考えは、論理的には正しいというか、計算自体は合っています(筋が通っています)。
が、そもそも、
「作品」に、「罪」のあるなしを見出そうとする前提が、間違っている。
「作品」が、「贖罪」とか「反省」とか「更生」とか、できませんよね。
- お金があるなら、コンビニでおにぎりを買う
- 猫にお金があるなら……猫にお金があるのだから、猫がコンビニでおにぎりを買うべき
- 猫にお金がないなら……猫にお金はないのだから、猫はコンビニでおにぎりを買わない
↑この猫、なんかおかしくないですか?
そもそも、「猫」に人間社会の経済を適用するのは間違っていますよね(猫には、「所持金」や「売買」といった概念がありません)。
同様に、「作品」に人間社会の規律を適用するのも間違っています(作品には、「罪」や「罰」といった概念がありません)。
人間社会の掟は、「人間」が主体となって運用されます(「猫」や「作品」は、愚かな人間に巻き添えを食らって振り回されるだけです)。
「作品に罪はない」論が発生する時系列を考えても、主役は明らかです。
- 「作者」が罪を犯す(罪が明らかとなる)
- 「作者の作品」がなんらかの処分を受ける
- 「作品に罪はない」と謎の議論が発生する
①「作者」が起点になっているように、「作者」が主役なので、「作者」を主体に考えるべきです。
それなのに、「作品」を主体に考えてしまうのは、
「作品」を擬人化しすぎ。
「作品」は、警察に出頭して罪を自白することもなければ、不当な処分に抗議したり弁護士を雇ったりして争うこともありません(争うのは愚かな生き物だけ)。
どれだけ、作者の魂が込められているっぽい「すごい作品」でも、
実際には、「作者の魂」なんて込められていません。
「作者の魂」なるものが存在するなら、それは作者の人格や身体に閉じ込められているっぽい、と考えるしかありません(ほかに有力な候補がないため)。
だから、「作者の魂」が罪を犯したなら、作者の人格や身体ごと憎んだり罰したりするのです。
それなのに、犯罪者が刑務所に入れられるときに、
いや!! 身体に罪はないよ!!
といっても、「身体」に「罪」があるかないかを考慮して、刑務所に入れるか否かを判断するわけではありませんよね。
同様に、「作品」に「罪」があるかないかを考慮して、作品を処分するわけではありません。
「罪を犯した作者に対する社会的制裁」の一環として、「作者の作品」もまとめて罰しているだけです。
世の作者に対して、
みなさん、罪を犯したバカの末路がこれです(罪の分だけ、仕事や信用や露出を減らすのでよろしく)
と、社会が警告し、見せしめにしているんです。
罪人がのうのうと生きていれば、追従するゴミ虫が涌いてきて、社会秩序が保たれないからです。
私たちが、ヤクザを見ればぶっ叩いて、銀行口座を凍結したりクレジットカードを作らせなかったりするレベルで追い込むのは、
反社会的勢力は潰す
反社の作品ごと潰す
反社の銀行口座ごと潰す
という意思表示にほかなりません。
そこで、
いや!! 銀行口座に罪はないよ!!
といっても、「銀行口座」に「罪」があるかないかは関係がありません。
一般的な会社員にしても、罪を犯せば仕事を失ったり、多方面に悪影響を及ぼしたりするのは変わりませんよね。
それなのに、作者が罪を犯したときだけ、
いや!! 作品に罪はないよ!!
みたいな論点がズレた擁護をするのは詭弁だし、こんな詭弁に付き合う必要はありません……騙されないで!!
作品を罰する基準は?ファンとアンチのバトルで決定!
では、作者が罪を犯したときに、作品まで処分するのは妥当でしょうか?(ヤクザの銀行口座みたいに?)
妥当かどうかは社会が決めます(ヤクザの銀行口座みたいに)。
たとえば、関係者の犯罪で市場から消える商品は、所詮はその程度の価値しかなかったということです。
- 社会に対する、作品のポジティブな影響
- 社会に対する、罪悪のネガティブな影響
①「ポジティブ」と、②「ネガティブ」が戦って、負けたほうが消えます。
だからそもそも、
いや!! 作品に罪はないよ!!
なんて詭弁を強弁しないといけない時点で、負け戦に突入しています。
罪を帳消しにするレベルの傑作であれば、いちいちそんなことを叫ばなくても、社会が守ります。
個人の好き嫌いで評価が分かれるような駄作なら、社会は容赦なく切り捨てます。
もちろん、社会にはさまざまな声があり、すべてが「社会」ではあります。
- 作品を守る声……社会
- 作品を切り捨てる声……社会
①も②も、社会の声です。
しかし、作品の命運を握る「社会」は、どちらか一方だけです。
この「社会」を簡略化して表現すれば、
ファン
VS
アンチ
勝ったほうが「社会」
です。
それでは、今回はファンの立場になって、
ファン勢力が、アンチ勢力に勝利するためにやるべきことは、「罪の有無」を語ることですか?
違いますよね。
作品を守る方法は?ファンなら作品の価値を語るべき!
作者が罪を犯したとき、それでも作品を守りたいファンがやるべきことは?
現実社会に対して、その作品の「価値」を認めさせること。
- 罪の有無
- 価値の有無
語るべきは、②「価値の有無」です。
①「罪の有無」を語っても、価値はありません。
だって、「作品に罪がないから」という理由で、その作品を支持する人間はいません。
「作品に罪はない」なんて主張しても、それは全作品に共通する当たり前の前提であって、優位性もクソもありません。
ゆえに、「価値」……ほかの作品と比べたときに、圧倒的に勝る点を語るべきです。
そうしてファンを増やし、
ファンではないが、なんならこの作者は嫌いだが、作品は評価せざるをえない……
的な支持者も増やさなければ、戦に負けます。
そして戦は、開戦してから準備しているようでは手遅れなので、
う~ん……私はこの作品好きだけど、この作者が罪を犯したら、この作品は社会から抹消されそうだな……
よし、作者が罪を犯す前に、この作品がなければ社会が回らない感じにしておこう……
と、普及活動を頑張っておくなり、事前に対策を打っておくべきです。
具体的には、
関連商品やコラボイベントなどに金を落とす!
AmazonやYouTubeなどで高評価&登録する!
SNSでファン同士繋がってアンチを威嚇する!
一人ひとりの力は微弱でも、ファン全員が少しの努力を怠らなければ、簡単には打ち消せない力になります。
逆にそこまでする信者にもなれないような駄作なら、ぶっちゃけ社会から消えようがどうしようが、どうでもいいでしょ?
数は力なり……キリスト教の『聖書』を消す手段は、もうありません。
イスラーム教の『クルアーン』を消そうとすれば、逆に消されます。
信者よ、団結せよ!!
まとめ:気持ち悪い言い訳をする作者は?気持ち悪い!
それではおさらいも兼ねて、ここまでの要点を3点でまとめます。
- 「作品に罪はない」は当たり前!贖罪も反省も更生もない!
- 「作品」を罰する理由は?罪を犯した作者への社会的制裁!
- 「作品」を守る方法は?罪の有無より、価値の有無を語る!
以上です。
最後に、上記の論理を応用して、作者が罪を犯した場合によく聞かれる「自主規制」論について述べて終わります。
作品に罪はない! 作者側や企業側は自主規制するな!!
みたいにいうけど、本当にそれ、自主規制なの?
過度な「社会的制裁」をチラつかされて脅されて、被害を許容範囲内に抑えるためには、自分たちで罪や罰や責任の範囲を決めて被るしかないだけだよね。
- 世論
- アンチ
- クレーマー
- 通りすがりの人
- お客様のご意見ご感想
などの「社会」が、制裁をチラつかせて脅している状況で、「自主」規制もクソもありません。
つまりこの状況も、簡略化して表現すれば、
ファン
VS
アンチ
この勢力争いに勝利した「社会」が、作品の命運を握ります。
企業などに対して、
おまえ、わかってるよな?(ナメてると潰すぞ……)
はい……
みたいになったとき、作品は残るでしょう。
おまえ、わかってるよな?(ナメてると潰すぞ……)
はい……
みたいになったとき、作品は消えるでしょう。
この世は戦いです。
あと、当たり前すぎて書き忘れていましたが、作者本人については、
キモい言い訳をするぐらいなら、最初から罪を犯すな。
- 罪を憎むなら……罪を犯した人も憎む
- 言い訳が気持ち悪いなら……言い訳をした人も気持ち悪い
以上、もしも「作品に罪はない」なんて自分で言い訳する作者がいたら、めちゃくちゃキモいと思う安田尊でした!
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