不要不急、という言葉を最近よく見聞きします。
という結論に達したので、シェアします。
では目次。
「不要不急」とはどういう意味か?
直近では「自粛要請」の記事でやったように、私はこの手の「日本語」を扱う記事において、基本的には辞書を2つほど引いて意味を並べてからまとめて解説する手法を採ります。
自粛要請、という言葉を最近(2020年2月~3月)よく見かけたり、耳にしたりするようになりました。いうまでもなく、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響です。さてしかし、「自粛」を「要請」する……なんだか違和感[…]
しかし本記事では辞書からの引用はしません。
いきなり3点でまとめます。
- 「不要」は「必要ではないこと」。
- 「不急」は「緊急ではないこと」。
- 「不要不急」は「必要ではなく、緊急でもないこと」。
ここまで日本語が読めている人間なら、以上の説明で十分でしょう。
私が本記事で整理したいことは、「不要不急」の厳密な意味ではなく、「人生」における意味と、「そもそも論」のほうです。
つまりそもそも、
ということです。
ではまず「不要」から考えてみましょう。
人生は不要である
私は「人生が必要であるか否か」ということを考えたとき、どちらかといえば不要っぽいと考えます。
「必要」とは、ある組成に対して、「欠けたときに組成が成り立たなくなるパーツ」のことです。
そのパーツによって成立する組成がそのパーツを必要とします。
ですからたとえば、
では「人生」はなにを組成するために必要でしょうか?
- 自分?
- 他人?
- 家族?
- 会社?
- 国家?
- 地球?
- 宇宙?
いずれにしても、「人生」は不要だと思えます。
たしかに私の人生が失われるということは、同時に私という人間の消滅も意味します。
そして私という人間が失われれば、私が登場していた他者の人生からも私という人間は失われるでしょう。
という話です。
そもそも私という人間も、私をパーツとして取り入れている他者の人生も、家族も会社も国家も地球も宇宙も、全部不要でしょう。
つまり私が欠けることによって、他者の人生や家族や会社や国家や地球や宇宙が少し不完全になるんだとしても、成り立たなくなるわけではありませんし、成り立たなくなったとしても、そもそもそんなものの成立を必要としている存在が不在です。
そういう存在が、少なくとも私には不在だと思えます。
ですから私には、私の人生も含め、すべての人生が(というより現世で知覚可能なすべてが)「不要っぽい」と思えます。
不可知論
しかしここで私があらゆる人生に対して、「不要だ」と言い切れないのは、私が不可知論者だからです。
つまりもしかしたら、
が私の人生を必要として存在してくれているかもしれません。
私はその次元を知覚できないと思われるため、究極的にはその次元に対して否定も肯定もしません(不可知論)。
でも考えてみれば、本当に私の人生が必要とされているなら、私に寿命があるのはおかしくない?
一応まだ私は死んでいないと思われるため、私に寿命が定められているのか否か、本当のところはわかりませんが……。
でもここに素晴らしい三段論法があります。
- 私の知る限り、日本の正式な医療機関で人間と認定された生命体には必ず寿命がある
- 私は日本の正式な医療機関で人間であると認定されている
- したがって私にも必ず寿命がある
というわけで、私には寿命があると考えたほうがよさそうです。
とするなら、どういうことか?
私には知覚不能だと思われる高次元の存在が私を見守りながら存在するとして、
だって私の人生は必ず200歳以内には幕を閉じるっぽいです。
つまり私の人生を見守っている何者かが存在するとして、そいつは私の人生が不要であることを、あるいは私の人生が不要になることを必要としているのではないでしょうか。
だとしたら問題は、私の人生はいつから不要になるのか? ということです。
私には知覚不能だと思われる高次元の存在が存在するとして、最大限好意的に解釈するなら、そいつは私が誕生するところまでは私の人生を必要としていたはずです。
だって最初から不要なら、そもそも私は誕生を許されていないでしょう……私には知覚不能だと思われる高次元の存在が、矛盾さえ許容して私のことが不要なのに私のことを誕生させてしまった非常識野郎じゃない限り。
人生は不急である
しかし私には、どの段階で私の人生が不要になるのかがわかりません。
私には知覚不能だと思われる高次元の存在が存在して、私の誕生までは私の人生を必要としていたとして、その後私の人生が不要になって寿命が尽きることに需要があるとして……いつまで私の人生は必要とされているのか?
仮説を立てるなら、
が一番妥当な気がします。
つまり最初から人間に自由意志などなく、人間は必要とジャッジされている間は生きており、不要とジャッジされたときに死にます。
でも考えてみれば、人間だって同じことをやっています。
自分が必要としている間は、道具でも動物でも人間でも、可愛がるくせに、不要だと判断した瞬間切り捨てるのが人間です。
そんな自分勝手な人間が自分勝手に扱われるのもまた、自然の摂理なのかもしれません。
あるいは逆で、人間が自分勝手なのは、高位の存在が自分勝手だから、上から下に性質が伝播してしまっているのかもしれません。
子どもが親に似たり、ペットが飼い主に似たりするような形で。
まあそれはどっちでもどうでもいいんですが、閑話休題。
に則るとしましょう。
すると、
と、いえないでしょうか。
だから私は生きていて、まだ死なないのです。
すなわち私の人生はいずれ不要になりますが、いますぐではありませんし、死に急ぐ必要もないのだと考えられます。
まとめ:不要不急に生きましょう
人生は不要かもしれません。
しかし不急でもあります。
今回、この「不急」にまつわる思考は「私には知覚不能だと思われる高次元の存在(またの名を『SARS-CoV-2』と呼ぶのかもしれませんが)」によってもたらされたわけですが、別に「私には知覚不能だと思われる高次元の存在(「神さま」とか「悪魔」とか「宇宙人」のような)」が不在でも、人生が不急であることに変わりはありません。
だって死に急ぐ必要性なんて、これっぽっちも知覚できませんから。
でも生き続ける必要性も知覚はできませんが……。
答えは私たちの知覚できない場所にあります。
ただ少なくとも、「不要」だとしても、「不急」です。
焦る必要はありません。
ということを、最近の「不要不急」連呼に乗じて考えたのでした。
終わり!
THIS IS THE ANSWER.