まずあなたが批判者と一致団結したら?
という話だよね。
スガシカオのプチ炎上謝罪騒動
さて、非常時や緊急時には連呼されがちな、
という思考停止ワードですが、もちろん新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行中の日本でも連呼されています。
日本では2020年4月7日、東京都を筆頭に7都府県で緊急事態宣言が発令されましたが、同日丁度いい例がインスタグラムとツイッターで発信されていたので引用しましょう。
批判や怒りや疑いじゃなくてさ、不要な外出を控える、自分や家族を守る、他人を思いやる、医療を守る…それしか新型コロナに勝つ方法はない
おれたちは絶対できる、絶対に勝てる!
https://instagram.com/p/B-o0pMrji6U/
しかし上記のツイート(および連携元のインスタグラム)はプチ炎上し、現在では削除されています。
釈明がこちら。
すみません。
削除させていただきました。
「一致団結」ツイートが午後8:45の投稿で、「すみません」ツイートが午後10:02の投稿です。
なかなか素早い(わずか1時間17分!)火消しだったといえます。
が、こんな短時間で削除された出来事でもきっちりネットに記録されているあたり、ネットは怖いですね。
今回はこのスガシカオ氏の例を用いて、なぜ「一致団結」ツイートがプチ炎上してしまったのかを考えてみましょう。
なお本記事において、スガシカオ氏を個人攻撃する意図はありません。
スガシカオ氏はすでに前言撤回と謝罪を行なっており、それ以上責める理由もなければ、そもそも私個人の意見をいえば撤回や謝罪をするレベルの可燃性を感じません。
しかし現実にはプチ炎上とツイ消しと謝罪が発生しており、
という視点で考える企画です。
では参りましょう。
一致団結が分断工作になるとき
まず「一致団結」という言葉ですが、文字通り、
という意味です。
この「一致団結」自体は、特に非常時や緊急時にあってはよく見られる行動様式であり、そこまで悪くない選択だといえます。
私は個人主義的傾向が強い人間ですが、その私個人の意見としても悪くないと思えます(「一致団結」したほうが個人の利益も大きくなると考えられる場合があるため)。
しかし、ではなぜ「一致団結」を呼びかけたスガシカオ氏はプチ炎上してしまったのか?
答えは、
です。
ここでスガシカオ氏のツイートを振り返ってみましょう。
批判や怒りや疑いじゃなくてさ、不要な外出を控える、自分や家族を守る、他人を思いやる、医療を守る…それしか新型コロナに勝つ方法はない
おれたちは絶対できる、絶対に勝てる!
https://instagram.com/p/B-o0pMrji6U/
じつのところ、「みんなが一人一人どうすべきかを考え」ることと、「一致団結」はかなり相性が悪いです。
なぜなら、人間は一人一人違う人生や、異なる事情を抱えて生きています。
そこで「一人一人どうすべきかを考え」てしまうと、どう考えても相容れない結論が出ます。
したがってこの「一人一人どうすべきかを考え」るやり方は、どちらかといえば個人主義者のやり方だといえるでしょう。
一方で「一致団結」は、どちらかといえば集団主義のやり方です。
「一致団結」は、だれもが協力したくなる強力なリーダーのもと、集った個人個人は思考も選択もリーダーに委ねて、思考停止をして付き従うやり方です。
そこでスガシカオ氏は、リーダーを務めようとしました。
おれたちは絶対できる、絶対に勝てる!
こののように、リーダーとして指針を示しています。
もしここで、スガシカオ氏が集団主義者を集めることに成功していれば、批判は巻き起こらなかったでしょう。
スガシカオ氏が提示した「新型コロナに勝つ」たったひとつの方法をみんなが絶賛して、みんなが従ったはずです。
しかしスガシカオ氏が集めてしまったのは、呼びかけてしまったのは、どちらかといえば個人主義者でした。
と、個人主義者向けの言葉でスタートを切ってしまっています。
そこに集う一人一人は、自分でどうすべきかを考えた結果、さまざまな思いを抱えています。
といった不満も抱えているはずです。
しかしスガシカオ氏のメッセージは、いきなり個人主義者向けから集団主義者向けへと切り替わり、
と、批判も怒りも疑いも封じようとします。
すべては一致団結のために、不満を持ったおまえらは黙ってろ、と言い放ったわけです。
集まった人たちに対して、しかし「一致団結」のために一部は黙らせよう、切り捨てようと呼びかけるなら、それはもはや一致団結ではなく、単なる分断工作です。
そして「分断」はもちろん争いを生み、スガシカオ氏は戦火に包まれました。
理想的な一致団結と無理な理由
ではスガシカオ氏の例を踏まえて、
考えてみましょう。
と思いましたが、ごめんなさい、そもそも論に入ります。
私はそもそも、「一致団結」なんて呼びかけるべきではないと考えます。
なぜなら「一致団結」を呼びかけなければならない状況に陥っている時点で、一致団結の完成はかなり厳しいからです。
理想をいえば、
その結果として満場一致で「一致団結が最良である」という結論に達して意思決定が行われれば最良ですが、不可能ですよね。
ある程度の規模を持った健全な集団であれば、必ず異論が出ます(異論が出ない場合は異常です)。
その異論を封じ込めるための安易な方法として、スガシカオ氏がやってしまったように、「リーダーによる一致団結の呼びかけ」が行われたりするわけですが、さて……。
それってつまり、一致団結を呼びかけた時点で、「一致団結(リーダー)に同意しない人」を排除することになります。
と問われたときに、答えに窮するのではないでしょうか。
リーダーに同意しない人たちを全員排除して、残った人たちで団結することを「一致団結」と呼ぶならそれでかまわないでしょうが、私はそれを「一致団結」と呼ぶ気にはなれません。
そのすぐそばには必ず、不一致で非協力的な、「リーダーを支持しなかった人たち」が存在するわけですからね。
まとめ:まずあなたからどうぞ
ですから「一致団結」自体が、不可能ではありませんが、かなり不可能に近いといわざるをえません。
もちろん私も、
などと極論を述べるつもりはあんまりありません。
しかしそれでも、最低限「みんな」と呼べるだけの人数をまとめるだけでも、至難の業です。
ましてや、「一致団結」を呼びかけた上で一致団結を完成させるなら、それこそ、
がなければ不可能でしょう。
スガシカオ氏は、日本国内の音楽分野では一流の有名人ですし、日本に長年住んでいて名前を聞いたことがない方はあんまりいないでしょうが、それでも「一致団結」を完成させるレベルには遠く及びません(スガシカオ氏をディスっているのではなく、99.9%の人間が達成不可能だということです)。
呼びかけた場所がオープンなSNS、すなわち「不特定多数」を相手取ったのも、「一致団結」との相性が最悪でした。
ネット上にはさまざまな個人が集っており、そこには必ず、
が渦巻いています。
日本においては、
といったワードもネット発でした。
日本人はこれまで、一致団結とは程遠い環境を醸成してきました。
それでも日本人に、いまさらになって「一致団結」を呼びかけたいなら、まず一致団結を呼びかけたい側が、
といった意見を汲み取り、安易に否定せず、寄り添わなければ始まりません。
つまり、
ということです。
本記事冒頭で述べた、
という話は、そういうことです。
そこで「批判じゃなくてさ、」などと謳いながら批判を始めるようなしくじり方をすると、スガシカオ氏のような知名度を誇っていても、失敗します。
世界は鏡のように成り立っているため、世界に対して「一致団結」を呼びかけるなら、自分のことを棚に上げた時点で交渉は決裂します。
繰り返しますが、私自身はそうした「一致団結」の呼びかけ自体を推奨しません。
スガシカオ氏が遺してくれた教訓は、ポエムや歌詞のなかでならともかく、
ということです。
しかしスガシカオ氏は最終的には批判に耳を傾け、謝罪まで行なったため、尊敬に値します。
私見ですが、真っ当な批判に耳を傾けず、謝れない大人になったら人間終わりですからね。
以上、「一致団結」が孕む自己矛盾についての記事でした。
THIS IS THE ANSWER.