自己中といえば、なにかと自分の考えや行動を優先して、他人に迷惑をかけまくる人間、というイメージがあるかもしれません。
しかし「自己中」を極めれば、そんなことにはなりません。
他人に不当な迷惑をかけず、自分のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を向上させることができます。
では以下でその理由を解説しましょう。
他人に迷惑をかけるとき、他人もまたこちらに迷惑をかけるのだ
まず見出しのとおりですが、「自己中」を謳歌するにあたって、他人に迷惑をかけることは合理的ではありません。
「自分」と「警察」で、自分の人生の主導権争いをすることになります。
だるくないですか?
そして大抵の人間は警察に敗れますが、逮捕されたら自分の人生の自由度、めちゃくちゃ下がりますよね。
逮捕されずとも、指名手配などによって、やはり自分の人生の自由度はめちゃくちゃ下がります。
結局、自分の人生なのに自分でコントロールできなくなります。
好きなことで生きていこうと思っても、
みたいなことになれば、束縛されまくりで生きることになりますし、
と脱走しても、常に警察を意識した逃亡生活の幕開けです。
そうなればもう、自分中心では生きられません。
警察中心。
他人中心。
ということは、他人に迷惑をかける人間は、他人中心で生きることになります。
犯罪に限らず、他人に迷惑をかければ、他人からなんらかの対策を講じられたり、他人が自分の人生に手をだしてきたり、口を挟んできたりして、うっとうしい日々の幕開けです。
そのことを理解する真の「自己中」は、ですから他人に迷惑をかけません。
矛盾しているようですが、真の自己中は、他人を顧みない人間にはなりません。
自己中を極めるには、他人を軽視するのではなく、むしろ他人のことも独立したものとして重視するからこそ、自分の中心に寄せつけないでいられるのです。
そして極力、自分の人生を他人に妨害されないよう、外敵を作らず、自分の内面を外敵に脅かされないように、注意深く生きる人間になるはずです。
そうすれば、自分の好きなことをやっている風で、いつもイライラしている、させられている、他人の操り人形、半端な自己中もどきに成り下がることはありません。
自分の自分による自分だけの行動
さて、厳密に「自己中」で生きたければ、他者の介入を阻止したければ、世界が自分を中心に回っていると考えるのではなく、自分だけの世界を自分だけで回すしかありません。
はい、かなりキツいですね。
人間社会を否定しています。
販売者の視点に立てば、他人に商品を購入していただかなければ立ち行きませんし、購入者の視点に立てば、他人に商品を販売していただかなければ望むものが手に入りません。
そしてお互いに落ち度がなくとも、売りたいものが売れなかったり、買いたいものが買えなかったり、あるいはお互いに干渉できない部分で、振り回されたりもします。
巷には「お客さまは神さま」なんてふざけたフレーズもありますが、お客さまが神さまなんてとんでもない、全知全能の神どころか、自分ひとりでは欲しいものも買えない、他力本願な生き物です。
そしてお店側も、そんな生き物を「神さま」と崇めなければならない程度には、やっぱり他力本願です。
そこで店長は店員がバックレるとブチギレるんでしょうし、店員は店長が給料を誤魔化してきたらブチギレるんでしょう。
そこに他者が存在し、依存があり、自分への妨害がありえる限り、真の自己中にはなりえません。
人間社会において自己中を極めるのは、かくも険しい道のりです。
そこで社会を捨て、人里離れた山奥に篭もるのも手でしょう。
しかし、社会を捨てずとも、部分的になら自己完結はできますし、部分的にでも自己中になれれば、自分の人生を満足いくものに仕上げることは可能です。
自己満足も満足のうち
たとえば落とし物を見つけたとき、
- 拾う
- 拾わない
真に自己中なルートはどちらでしょう?
じつは、どちらでも自己中になれます。
自分が拾いたいと思えば拾えばいいし、拾いたくないと思えば拾わなければいいのです。
まさに自己中です。
しかしそこで、
とか、
とか、
という感じで対応するのであれば、自己中未遂、満足度も低そうです。
前ふたつの例は他人によって消極的な選択肢を選ばされていますし、最後の例は「感謝されたい」という自身の願いによって行動できていますが、「感謝されるかどうか」は他人の意志に委ねられているので、自己完結ができません。
そこで思ったように感謝されなかった日には、
という不満が生まれることでしょう。
三者の共通点は、心です。
自分の心を中心に、核にした世界だけで完結させていれば、
といった結末を迎えることができます。
そこで「偽善」と誹られようが「自己満」と罵られようが、別に周囲に正義感や充実感をアピールしたいわけではないので、関係ありません。
褒められようが褒められまいが、そんなことにいちいち右往左往する必要性も生じません。
ただし、ここで重要なのは、一連の動作で、他人の迷惑になることはしない、ということです。
最初の項目でも述べたとおり、「他人の迷惑」は、「自己中」にとって、合理的ではありません。
他人に迷惑をかけないからこそ、
と、他人を遮断できます。
しかし世の中には、不当な「迷惑」を主張してくる人間もいますね。
こうした不当な主張は、真に受ける必要がありません。
正当な主張で退けて完結です。
そして落とし物の例に戻りますが、
という選択肢もあります。
が、それをやったら自分の中心になにが入り込んでくるのかは、説明済みですね。
まとめ
いうまでもなく、「罪を犯したい」と思ってしまったら、その時点で「自己中」の難易度は跳ね上がりますし、落とし物にしても、拾って届けたいなら届ける相手が必須ですし、
とか、
とか、いうまでもなく、他人に寄りかからないのは難しいことです。
しかし、必要以上に他人に依存している部分は、自らを中心に据えることによって、改善できるかもしれません。
そう、「人」という字のように、ひとりの人間が己の両足で立つように、自立できる部分は自立して生きていけたら、人生はより素晴らしいものになるでしょう。
邪魔立てする人間はいなくなり、己の人生を独り占めできるでしょう。
こんなに素晴らしい人生がほかにありますか?
なんて訊くまでもなく、己が答えを請け負っている限り、その素晴らしき人生を否定できる人間は、だれひとりとして存在できないというわけです。
THIS IS THE ANSWER.