親ガチャの意味は、
という問題を指摘するインターネットスラング(ネット発の用語)です。
しかし「親ガチャ」が新しいのは表現だけで、考え方は特に新しくはありません。
昔からあります。
日本古来のことわざ、
これらと根っこの部分は同じです。
そしてカエルは親の姿を見て諦め、親がトンビだと信じるタカは自分の努力を誇示したがり、親が光っていた子どもは七光りを否定したがる。
「親ガチャ」を否定する人間も肯定する人間も諦観する人間も、これと同じですよね。
昔からある同じ構図です。
というわけで本記事では、親から恵まれた国語能力を授かった私が、「親ガチャ」の意味を掘り下げます。
では以下目次です。
蛙の子は蛙!親ガチャに失敗した子は蛙にしかなれない!
ここでいう「カエル」の意味は、「凡人」です。
そりゃあ世の中には、
そして「カエル」がいくら努力をしたところで、「クジラ」や「サメ」にはなれません。
つまり、
なのです。
ところでみなさん、生まれる前のことを思いだしてほしいんですが、
つまり、
- 「シャチ」
- 「クジラ」
- 「サメ」
- 「カエル」
- 「イヌ」
- 「ネコ」
- 「ハエ」
- 「ヒト」
とか、選びましたか?
「カエル」に生まれるにしても、
- 「井の中の蛙」
- 「日本の田舎のウシガエル」
- 「ハワイの中のヤドクガエル」
とか、いろいろ選択肢があるはずですが、選びましたか?
少なくとも私にはそんな記憶はありませんし、みなさんも同じでしょう。
記憶もなければ、記録の有無すら確かめられません。
つまりもし実際、生まれる前の私たちに自由意志による選択権があったのだとしても、証明は不可能です。
いわゆる「悪魔の証明」に近い状態です。
記録が残っているのに誤魔化そうとするバカな政治家の言い逃れとは違います。
したがって、私たちの認識としては、
と、主張することができるでしょう。
だから学校や会社や家庭で、
だって本当に知らないのです。
神のみぞ知るってやつです。
ただカエルなりに考えてみると、
鳶が鷹を生む?いいえ鷹が生まれたなら親もまた鷹です!
このことわざ「トンビがタカを生む」はもちろん比喩であって、マジメに考えるなら、前提が偽であり嘘です。
トンビの親はタカの子を生みません。
タカの子が生まれたなら、その親もまたタカだった、という結論が導かれるだけです。
『ウマ娘』は、競走馬を擬人化して女体化して萌えキャラ化した冒涜的作品ですが、私はこの作品をきっかけに多くを学びました。
そのひとつが、
です。
まず競馬といえば、それこそ「ブラッド・スポーツ」と呼ばれるほど血統が重要な競技です。
なお本来の「ブラッド・スポーツ」は、動物の血が流れる競技、兎狩りや闘犬や闘牛などを指します。
それが競馬においては、
的な意味合いで使用されるぐらい、競馬は「親ガチャ」要素が強い世界です。
だから競走馬は、現役時代の成績と同じぐらい、種牡馬や繁殖牝馬(つまり親)としての成績も重視されます。
そしてステイゴールドという競走馬は、一流の名馬と比較すると、ぶっちゃけ微妙な成績しか残していません。
ステイゴールドの競走成績は、50戦7勝、そのうちG1レースは1勝だけという馬です。
クラシック3冠馬を筆頭に、G1を何勝もしている競走馬をタカとするなら、
です。
ところが、種牡馬としてのステイゴールドの成績、ステイゴールド産駒の実績はといえば、
- オルフェーブル(クラシック3冠、春秋グランプリ、G1成績6勝、生涯成績21戦12勝)
- ゴールドシップ(クラシック2冠、春秋グランプリ、G1成績6勝、生涯成績28戦13勝)
- ドリームジャーニー(春秋グランプリ、G1成績3勝、生涯成績31戦9勝)
なんですよね。
特にオルフェーブルは、JRA(日本中央競馬)史上最強といえば、ディープインパクトかオルフェーブルかというぐらいの最強馬候補です。
ということは、競馬におけるブラッド・スポーツ(血統競技)理論を採用するなら、
という疑惑が有力視されて当然です(しかも、ゴールドシップまで本気で走っていなかった説がささやかれている始末。まさにブラッド・スポーツ)。
つまりこの場合、トンビ(ステイゴールド)がタカ(オルフェーブルたち)を生んだ、と考えるのは間違いで、
なお競馬では、オグリキャップもトンビからタカが生まれた例として有名ですが、じつはオグリキャップの母親がタカだったことがバレています(オグリキャップの母親ホワイトナルビーは、桜花賞馬であるオグリローマンを始め、多数の活躍馬を生んでいます)。
まとめると、
です。
親ガチャ理論を採用するなら、以上は人間にも適用できるでしょう。
そもそも、
という話ですよね。
- 貧乏でも借金まみれでも努力して逆転して成り上がった人間
- イジメられても這いつくばっても不屈の精神で成功した人間
- 負けても失敗しても勝つまで成功するまで諦めなかった人間
はい、すべて親ガチャの産物です。
成功するまで頑張れる才能を親からもらっただけなのに、自分の努力がどうとか、思い上がりも甚だしいですよね。
その努力も思い上がりも、親が努力遺伝子や自己肯定感遺伝子を持っていて(親ガチャ成功)、さらに因子を継承(因子ガチャにも成功)した強運こそが本体でしょう。
親の七光り!親ガチャに成功すればこんなに有利な人生!
たとえば、
- 生まれたときからキーボードとかがレインボーに光る30万円のゲーミングPCで遊ばせてもらえる子ども
- 激安の殿堂『ドン・キホーテ』とかで売っている2万円以下のノートPCすら買い与えてもらえない子ども
- 幼少期からキーボードとマウスに慣れ親しんでいる人間
- 成長期以降からキーボードとマウスの操作を始めた人間
この差を大人になってから挽回するのは、ほとんど不可能です。
②「成長期以降からキーボードとマウスの操作を始めた人間」になってしまった時点で、世界で活躍するプロゲーマーへの道は絶たれるといっても過言ではありません。
元をたどれば、②は生まれた時点で、「プロゲーマー」という就職先がひとつ消滅しているわけです。
一方で、①「幼少期からキーボードとマウスに慣れ親しんでいる人間」は、②を蹴散らしながら、
などと考えることができます。
なぜなら①の親は、ゲーム業界やIT業界の人間だったからです。
なんてことはない、30万円のゲーミングPCは、親のお下がりでした。
親が昔使っていたゲーミングPCを、子どもの遊び道具として与えただけです。
だから①の親には、業界での知名度や人脈という資産もあります(もちろん、「資産」とはお金や不動産といった有形資産以外に、無形資産や文化資本も含みます)。
つまり親が一言か二言、
と、周囲に威光を発揮すれば、二つ返事で「良いチーム」や「良い会社」が見つかるでしょう。
っていうかぶっちゃけ、①の親はゲーム業界で年収1億円プレイヤーで資産運用もしているため、その財産で①の子どもは都内のマンションを買ってもらって働かなくても一生遊んで暮らせるのです。
一方で、レインボーに照らされなかった②の子どもは、下流~中流家庭なので働かなければ生きてはいけません。
でも②の子どもは、スマホとYouTubeが親代わりだったので、ろくに特技もなければ文化資本も人脈もなくて苦労するでしょう。
たとえ生まれた時点での子どものスペックが同程度でも、親の資産に格差があれば、その後の人生は大きく変わります。
そしてハズレを引いた負け組は、アタリを引いた勝ち組に対して、
と、負け犬の遠吠えをかまして、「本当は自分のほうが上だ」と精神勝利を目指すしかなかったのです。
昔からね。
でも負け組がそうしてボロ家に住んでいる間にも、勝ち組はガチャで引いた高級マンションに恋人や愛人を連れ込んで、イチャイチャガチャガチャを楽しんでいるわけですが。
現代はそうした勝ち組の生活がインターネットやSNSを通じて伝わってくるため、負け組の精神勝利も難しくなりつつあるのでしょう、というわけてまとめましょう。
まとめ:親ガチャを主張する弱者が幸せになれない理由!
- 「親ガチャ」の意味は、子どもが親を選べない問題を提起した愚痴や皮肉や自虐
- 「親ガチャ」の本質は、カエルの子とタカの子が競走させられる格差社会の指摘
- 「親ガチャ」の理論は、突き詰めれば決定論や運命論に行き着くため、取扱注意
以上です。
③について補足すると、親ガチャ問題を是正するためには、格差社会の解消が求められます。
が、もし親ガチャでアタリを引いたいわゆる上級国民が、こう述べたらどうでしょう。
と。
この言い分は、努力不足を「親ガチャ」に責任転嫁する弱者や怠け者と同じロジックです。
と、親の素性や経歴を必死に隠しながら主張するクズも、そういうクズ遺伝子を持ったクズ親から誕生して育成された結果クズとして生きているだけだとすれば、だれがそのクズに文句をいえるのか?
また、
と、すぐに思考停止に陥るバカも、単細胞な親から生まれたせいで処理能力ガチャに失敗した結果、すぐに処理落ちを繰り返すバカとして生きているだけだとすれば?
こうして私たちの能力や言動は親によって上下左右されるのだから、子である私たちには責任能力がない……という決定論を主張するなら、同じ決定論で反論されたとき、問題解決の芽が潰されます。
さらに私たちの親もまた、祖父母たちの子であるわけで、
みたいなわけのわからない泥沼に沈没していきます。
また、世の中には自虐も軽口も叩けないレベルの弱者も大勢いますが、
このへんの泥沼から抜け出す解決策を練って「親ガチャ」を主張していくならかまいませんが、解決策を持っていないなら、窒息するだけでしょう。
そして決定論を採用しないなら、いまでも十分、バランスは保たれているのでは?
個人的には、決定論は人生をつまらなくするため(不幸にするため)、採用しないほうが賢明です。
といっても、「病は気から」と教えても、不幸になるように生まれた人間は進んで不幸になるのでしょうか?
最後にもうひとつ、私が「親ガチャ」という言葉について気に入らない矛盾があって、この矛盾を解説して終わります。
おまけ:「親ガチャ」ではなく「子ガチャ」でしょ?
- ガチャを回す者
- ガチャが回された結果
- ガチャを回す者……親
- ガチャが回された結果……子
ですよね。
つまり出生時の親子関係においては、子どもは「親ガチャ」なんて回せないんですね(養子縁組とかなら、ワンチャンあるかもしれませんが)。
したがって、妊娠や出生に関するランダム性を表す正しい表現は、
です。
妊娠するか否かという段階から子ガチャは始まっていますが、そのガチャを回しているのは親です。
それなのに「親ガチャ」だなんて、まるで子どもたち自身がガチャを回したかのように自虐するなら、無駄に責任を負うだけの愚行です。
ガチャを回す行為は、その結果も含めて、ガチャを回した人間に責任があります(優良誤認や、人間でいえば経歴詐称などは除きますが)。
親なら、自分たちの、
- 能力
- 性格
- 身長
- 体重
- 容姿
- 学歴
- 病歴
- 収入
- 資産
- 家柄
その他諸々を吟味して、だいたいどのレアリティの子どもが生まれやすいのか、予想ができるわけですからね。
親は、
- どの時節に、
- どの季節に、
- どの年齢で、
子どもを産むのかも、ある程度はコントロールできます。
子どもが受ける理不尽は、そうした予測が一切立てられず、物心つく前に生まれている点にあります。
それなのに、「親ガチャ」だなんてふざけた物言いをしているから、
なんてふざけた反論を許したり、自分で考えたりするはめになるんです。
「リセット」したところで、輪廻転生があるのかどうかも、もう1度「自分」として生まれることができるかどうかもわからないのに。
もしも「自分」という意識や精神や魂が、特定の条件、
- 特定の世界
- 特定の実親
- 特定の受精
- 特定の時刻
- 特定の生命
といった条件においてのみ「自分」として肉体に宿るなら、そもそもガチャもリセマラもありえません。
まあわからないことは「わからない」が答えなので、リセマラについてはこのへんにしておきましょう。
まとめると、少なくとも現状、私たちが意識的に知覚可能な範囲でわかっている答えは、
だってことです。
だから出生結果に「ハズレ」があるんだとすれば、それは親ではなく、子のほうです。
自虐がしたいなら、「親ガチャに外れた」なんて誤魔化すのはやめて、
であることを認めなければ、なにも始まらないし、なにも面白くないでしょう。
自虐は弱者の華です、どうせ使うなら効果的に使いましょう。
以上、どこかでスヌーピーのあの名言「配られたカードで勝負するっきゃないのさ..それがどういう意味であれ」を引用しようと思っていたけど、できなくて残念な安田尊でした!