笑っていないのに「笑った」と書き込むのは、優しい嘘。
~これまでのあらすじ~
実際のところ、「笑った」は、「自分は笑いました」だけを意味する言葉ではないからです。
単に「面白い」を意味している場合もあります。
「笑った」と「真顔」は矛盾するけど、「面白い」と「真顔」は矛盾しないし、
私はそのことを、私が優しくできなかったお笑い芸人から学びました。
というわけで、「お笑い」と「面白い」の違いを解説します。
では以下目次です。
お笑い芸人は「面白い」より笑いが欲しい
まあ、厳密には過去現在「売れていない」であって、「売れない」は将来性込みで全否定していてヤバいと思うんですが……(なぜか一般化していますよね。「売れないバンド」とか「売れない役者」とか)。
と、未来に思いを馳せる程度には、私はAちゃんが売れると信じています。
Aちゃんの年齢や性別は内緒ですが、男であれ女であれ何歳であれ、ちゃん付けされるような天性の幼さと明るさと茶目っ気を持っています。
という空気が流れるのを、私は何度も体感しています。
あの暗い空間は、葬式で笑いそうになる不謹慎な人間を何人か呼んでおけば、笑ってくれそうなものですが……。
残念ながら、私も連れも、そこまで「面白くないから面白い」で笑えるタイプではなかったし、
だから、現象としての「スベった(静まりかえる劇場)」は共有できますが、その前提「面白くないから」は共有していません。
よって、私には共感性羞恥的な感情もありえません。
ただ、では私がそんなときのAちゃんのネタで笑っているのかと訊かれれば、笑っていません。
と思いながら、私は表情ひとつ崩さず声ひとつ漏らさず、くすりとも笑っていません(私の目元や口元が少しゆるんだとしても、観客席にいる私はスポットライトを浴びていません)。
あるとき、私がAちゃんと飲んでいたら、そのことを愚痴られました。
私はAちゃんのことを「面白い」「面白い」というけど、
Aちゃんは、基本的には天真爛漫ですが、アルコールを服毒すると病むことがあります。
私はお酒が入ると笑いやすくなるので、そんなふうになってしまったAちゃんを見てしまうと、悪いけど笑いがこらえられません。
これは「ギャップ」が笑いになっていますが、Aちゃんのネタの問題点は、こういう直感的なネタではないところです。
と、分析結果に静かな喜びが湧くような、知的なネタであることが多い。
実際Aちゃんは、売れれば「売れない芸人」⇒「高学歴芸人」にジョブチェンジして、クイズ番組とかに呼ばれるような大学を出ています。
でもそういう、喜怒哀楽でいえば知的な喜び、知的な楽しさ、
クイズ番組でも、往々にして爆笑を誘うのはわかりやすいおバカ回答であって、知的な回答ではないはずです。
しかし「知的」と「面白い」が矛盾するなら、クイズ番組に高学歴芸人は呼ばれないし、そもそも「高学歴芸人」というカテゴリも生まれません。
では「知的」と「面白い」が両立して、知的な笑いが静かな喜びや楽しさをもたらすとしたら、
笑顔が見えないからといって、笑い声が聞こえないからといって、だれも面白がっていないとは限りません。
少なくとも、私は面白いと思ったことがあります……静まりかえった劇場で。
でも思っているだけじゃ伝わらないから、私はちゃんとAちゃんに「面白い」「面白い」って伝えているのに、
メンヘラみたいに落ち込まれると、笑ってしまいます。
すると、Aちゃんも釣られて笑うのを見て、私は「面白い」じゃダメなのかもしれないと思いました。
やはり、お笑い芸人というからには、笑いを求めているのかもしれない……「面白い」じゃなくて。
「笑った」が優しい嘘なら嘘つきでも良い
- 面白い
- お笑い
世間に①「面白い」が求められているなら、「面白芸人」が職業化されていそうなものです。
でも現実に職業化されているのは、②「お笑い芸人」。
この現実から、②「お笑い」を①「面白い」の上位に置くなら、
が、実際笑っていないのに、笑顔とか笑い声とかを伝えることはできません。
作り笑いはできますが、それがバレたときには友情が終わります。
Aちゃんは(お笑い芸人をやるには)無駄に高学歴だし、(お笑い芸人をやるには)無駄にプライドも高いところがあって、つまり忖度は非推奨です(それなのに、わかりやすい結果を求めているくせに、わかりやすい勢いやリズムに任せたネタができなくて苦しんでいるアホです。もちろん本人も自覚済み)。
文字なら、こっそり①「面白い」を、②「笑い」に改ざん変換するのは簡単です。
文字なら、①「真顔」を②「笑顔」に「アンパンマン! 新しい顔よ~!」作り替えたことは、バレません。
そして、世間が①「目に見えないわかりにくい結果」より、②「目に見えるわかりやすい結果」を望むなら、
この嘘は、絶対にバレない嘘であり、優しい嘘です。
つまり、良い嘘です。
そのことをみんなわかっているから、
と、上位表現を用いているのかどうかは、実際知りませんが……(だって、知る由もないから完璧な嘘たりえるんだし)。
その実態や意図はともかく、無自覚であれ無意識であれ、本能的な作用で①「面白い」が②「笑い」にすり替わっているとしましょう。
それが嘘だとしても、このように絶対にバレない上に、相手を喜ばせる表現なら、
「キモい」は優しくない嘘だから悪いかも
上記は、「キモい誇張表現」自体が、キモい誇張表現です。
私は「キモい(気持ち悪い)」と表現しましたが、(実際に気持ちが悪くなって吐き気がしている)みたいな状態ではありませんでした。
「笑える」と表現しながら、(実際に可笑しくなって笑っている)みたいな状態ではないのと同じです。
本当に誇張表現が気持ち悪い(頭痛がするとか吐き気を催すとか)なら、自分は誇張表現を真似しないでしょう(自分から頭痛や吐き気を好む人がいるでしょうか? アルコールで知能が低下している人とかを除いて)。
「キモい」自体が誇張だから、自分でも同程度のキモい真似ができます。
そして、わざわざ真似するということは、実際その「キモい」には(面白い)の意味すらあるかもしれませんが、
- (笑っていないのに)一生笑ってる
- (泣いていないのに)泣いちゃった
- (真偽不明なのに)神、天国、地獄
みたいなキモい誇張表現を使いがちなネット民は、泣いちゃうかもしれませんよね。
同じような現象は、テレビやラジオのトークを切り抜いた芸能記事でも見られます。
リアルなその場の雰囲気は、お互いプロの演者同士が了解し合った、笑いあり台本ありの「ボケとツッコミ」なのに、
上記のような例も、(ポジティブな雰囲気)が隠され、ネガティブな結果をもたらしています。
つまり、「ネガティブ」を「優しくない」とするなら、「優しくない嘘」です。
このように、
- 優しい嘘……「(笑っていないのに)一生笑ってる」
- 優しくない嘘……「(気持ち悪くないのに)キモい」
もしも私たちが、嘘の表現に意識的であるなら(そして優しくポジティブでありたいと願うなら)、①「優しい嘘」は良いとして……。
②「優しくない嘘」には、気をつけたほうがいいかもしれません。
まとめ:「笑えない」は笑っていないか?
- 真顔で「ワロタ」「草」「一生笑ってる」は普通に嘘で、せいぜい「面白い」が実態
- だけど人は「面白い」より「笑い」のほうが好きだし、文字なら嘘は絶対にバレない
- 絶対にバレなくて人を喜ばせる嘘なら、それは優しい嘘だし、使っても良い嘘だよね
以上です。
ちなみに私は、表現の善し悪しについては、以下の価値観に基づいて考えています。
- 優しい嘘
- 優しくない嘘
表現の豊かさを「良い」として目指すなら、①「優しい表現」も②「優しくない表現」も、どちらも必要です。
私が前々々回の記事でも本記事でも、意識的に「キモい」「キモい」と嘘を連呼しているのはそういうわけです。
私と同じタイプで、よく文章を書く人なら、あるあるだと思いますが、
これもやっぱり、「優しくない嘘」が発動している結果でしょう。
そうやって清濁併せ呑む嘘を好むのか、清く正しく楽しい嘘だけをつくのかは、その人の価値観次第です。
私は嘘に限らず、事実に基づいた論理的で明晰な表現も使うし、エモくてキモい感情的な誇張表現も使います。
あとは、単純に近寄らないようにするとか。
結局、方向性が違うなら、別々の道を歩めばいいだけです。
ただ、過激派にしろ、穏健派にしろ、
ここは合意できるはずです。
以上、真顔で「草」「ワロタ」「一生笑ってる」と書き込んでもいい理由でした!
なお、ヴィトゲンシュタイン「写像理論」的な、「正しい言語=正しい事実」を謳う言語原理主義者(?)については知りません。