っていうか私は自分の葬式やってほしくないんだけど。
1
自分の死を意識する機会が最近多いからか、この前も私は知人のAさんと話したときに、
「自分の葬式に集まった人たちに、自分のことをどう話されるか心配で……」
みたいな話題になった。
Aさんは年金暮らしの高齢男性で、COVID-19(新型コロナウイルス)に感染してもまずいし、ワクチンを打ってもまずそうだし、みたいなとにかく「自分の死」を意識するお年頃だ。
「自分の死」を意識している年寄りほど弱々しい存在もない。
だからAさんの質問に対する私の回答はこうなる。
「君が僕の葬式にきたら、僕のことをどう話すと思う?」
「最期は死ぬほど弱々しく見えた」
もちろん私はこんな失礼なことを直接いったりはしない。ここだけの秘密だ。
しかし残念ながら私とAさんは顔見知り程度で印象深い「思い出話」とかがあるほど深い仲ではないし、だからそもそも私はAさんの葬式に参列しないと思うし、仮に参列したとしても話す内容どころか話し相手の顔すらほとんど思い浮かばない。
でもだからといって、
「私はAさんの葬式にはいきませんよ」
これも使えない。
仮定の話なのはAさんも承知しているだろうし、そもそもAさんが特に親しくもない私に「死後の評判」を訊ねているのは、だから特に親しくもないからだろう。
たとえば親友に「自分の死後の評価」を直接訊くのは勇気がいるだろうし、勇気を振り絞って訊いて低評価だったら傷つくし、高評価でも本音か建前か本当のところはわからない。
だから気休めに、Aさんの葬式に参列しない私を相手にしているのだ。
でも私の本音も、結構攻撃力が高いと思うから使えないものばかりだ。
かといって私の建前も、結構薄っぺらいと思うから使いたくない。
さてどうしよう、私はどうすれば本音で弱ったAさんを元気づけられるだろうか……と考えて、
「そもそもAさんの葬式って、開かれるんですか?」
と訊いてしまって、もしかしたら私がここまで考えた答えのなかで一番ショックを与えてしまったかもしれない。
でもこれは1から10まである話のうちいきなり9ぐらいから話してしまっただけで、大丈夫、話せばわかる。
2
私は自分の葬式なんか開いてほしくない。
だから漫画『デスノート』に登場するアレを私も考えたことがある。
南空 ナオミ
自殺
2004年1月1日午後1時25分
人に迷惑がかからぬ様
自分の考えられる最大限の
遺体の発見されない
自殺の仕方だけを考え行動し
48時間以内に実行し死亡。
まあだいたい、山とか海とか鍾乳洞とかを駆使すれば、簡単に何通りでも思いつく。
それでよく、人知れず死亡した人間が供養されず成仏できず地縛霊とか悪霊とかになって……みたいな作り話があるけど、お生憎様、私は幽霊をあんまり信じていない。
神様も仏様も、天国も地獄も信じていない。
- 戒名
- お経
- 念仏
- 焼香
- 数珠
- お墓
本当に意味があると信じているの?
私は信じていない。
だから私の死体は、山に棄てられて野晒しになったり、野犬や野鳥の餌になったり、東京湾に沈められて海の藻屑になったり魚の餌になったりしてもいい。
そのせいで本当に死後の世界とやらがあって、賽の河原で石を積まされたり崩されたり、地獄に落ちたり地獄の業火に焼かれたりして死ぬほど後悔するとしても、自業自得の意味をだれよりも深く思い知れると考えればまあ悪くない。
だから私は自分の葬式なんか開いてほしくない。
そんなお金と人手が集まるんだったら、ディズニーランドかUSJにでも遊びにいけばいい。
そうすればみんなも、
「私が死んだおかげで会社や用事を休めて、世界最大級のテーマパークで遊べて、めっちゃ幸せ」
って感じになるだろう。
白黒の喪服と暗い表情と湿った雰囲気の葬式なんかと私の死を結びつけられるより、同じ白黒ならあの黒い毛皮と白い手袋のネズミと結びつけられたほうが私故人も浮かばれるはずだ。
だから私が認める葬式の価値は、
- 慶弔休暇が取れる(仕事や用事が休める)
- 慶弔休暇によって人と葬儀費用が集まる
- 葬式代を遊興費に横流しして豪遊できる
これだけだ。
せっかく集めた資金を寺や住職に中抜きされて、人生の大切な時間を喪服と念仏と合唱で埋め尽くす必要があるのかどうか?
生きている人間は、生きている間にもっと考えたほうが良い。
3
ということを(漫画『デスノート』のくだりとかは話していないけど)Aさんに話すと、Aさんは苦笑してむせてしまった。
自分の死⇒葬式、という図式が1+1⇒2と同じぐらい当たり前の世代にとって、私は非常識なバカに見えたかもしれない。
でもAさんは物腰柔らかく、
「そういうのがいま流行ってるの……? 息子と葬儀のことをちゃんと話し合ったことはないんだけど……」
と訊いてきた。
もちろん流行っていない(たぶん)。
でも流行っているかどうかは関係がない。
だって現に、流行っているかどうかにかかわらず、私がそう考えているんだから。
「流行っていても流行っていなくても、息子さんがどうするかじゃないですか?」
「うん……」
「心配なら、息子さんと話し合ったほうがいいかも」
「うん……」
Aさんは私の話した内容を咀嚼中らしく、心ここにあらずという感じだった。
私はAさんを仏教徒からディズニー教徒に転向させて勇気づけようとしたが、それは失敗した。
でもAさんの当初の心配、
「自分の葬式に集まった人たちに、自分のことをどう話されるか……」
という不安は、解消されたようだった。
なぜなら、
「自分の葬式、ちゃんと執り行われるんだろうか……」
という心配で上書きされたからだ。
「毒をもって毒を制す」というが、この場合は「心配をもって心配を制した」のだ。
とか余裕ぶっている場合ではなくて、私はこのままではAさんの心配の種を増やしただけかもしれないと思ってちょっと焦った。
というわけで私は、1から10ある話のうちの10をいう。
4
「でももし、ディズニーランドで豪遊するのを我慢してお坊さんを呼んだり葬式を開いたりするなら、もうそれだけでめちゃくちゃ大事に思われているってことじゃないですか?
その葬式で自分がどう語られるかなんて、どうでもよくないですか」
だってそんなの仮に悪口でも、愛のある悪口だと思いますよ」
現在、Aさんは息子さんと話し合って、息子がディズニー教徒ではないことを確認してホッとしている(もちろんUSJ教徒でもレゴランド教徒でもなかった、残念)。
世の中、常識人ばかりでつまらない。
どうせこの息子も、喪主を務めれば香典のお返しにつまらない粗茶とかを送って、本当につまらないと思われる常識人なのだ。
でも今度、ワクチンを打ち終わったら生きている間に家族でひらかたパーク(大阪の遊園地。Aさんの思い出の場所)にいくことにしたそうで、それはよかったと思う。
死んでから遊園地で豪遊されるより、生きている間に遊園地で豪遊したほうがいいに決まっている。