少なくとも天は私に味方した。
今日はエイプリルフールではない
今日をエイプリルフールにするための条件は3つある。
- 今日が4月1日であること
- 私が嘘を好むこと
- パンデミックが起きていないこと
①、今日は2020年4月1日だ。
②、私は嘘が嫌いなときもあれば、好きなときもある。
③、世界は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に覆われている。
したがって今日はエイプリルフールではない。
そもそも私は、エイプリルフールだから嘘をつこうとか、エイプリルフールではないから嘘をつくのはやめようとか、そんなふうには生きていない。
必要とあらばいつだって嘘をつくし、不要であればいつでも嘘はつかない。
そして私は今日、嘘を必要としていない。
エイプリルフールを必要としていない。
だから今日は単なる2020年4月1日だ。
といっても、私は誤解の余地を残さないために、本記述を書き上げるのも投稿するのも4月1日以降にすることに決めた。
もちろん4月2日も4月3日もエイプリルフールではない。
私は走りだした
ジョギングの月間目標が12km残っており、ノルマを消化するためだった。
私が使用しているジョギング専用の距離測定アプリ「adidas Running」はスタート時の日付と時刻に準拠して記録するため、3月最終日の23時59分にスタートを切って走り終えたとき4月になっていたとしても問題はない(と自分で定めていた)。
中身のない空記事は投稿していないし、各記事で最低限のテーマと内容は示しているため、加筆修正で挽回できる(と私の基準では考えられた)。
挽回できない失敗としては、3月に10記事投稿できていなかったり、投稿できていても空記事が含まれていたりする場合は無理だ(もちろん後日日付をいじった記事を投稿して体裁だけ整えることは許されない。ブログはどうぶつの森ではないのだ)。
3月31日23時58分、私はブログ記事の連投を終えてノートパソコンを閉じてスマホの「adidas Running」を起動して頭のなかで走れ走れ走れ、と連呼しながら走りだそうとしたものの、ふと「挽回できない失敗」のケースが脳裏をよぎって時間がないにもかかわらずふたたびノートパソコンを開いて自分のブログにアクセスして月間アーカイブを閲覧して3月の投稿記事数が9であることを確認した。
私は6記事連投したと思っていたが、焦りすぎて5記事しか投稿できていなかったのだ。
ディスプレイの時刻は23時59分を示していた。
私は大急ぎでブログの管理画面に入り、どの記事が投稿できていないのかを確認して投稿した。
予定していた投稿記事の順番は狂ったが、ぎりぎり間に合った。
直後、「adidas Running」をスタートさせた。
お守りを拾った
私は2020年3月31日23時59分に投稿した記事でこのように述べている(不本意な走り書きのため修正予定、下記は修正前)。
ジョギングノルマは距離測定アプリの設定的に23時59分から走り始めれば走り終えるのが明日でも今日の記録になるので、それで……と思ったけどなんかいま外で雨降ってくる音して絶望しているけど、でもそれでも深夜ならだれにも見られないし濡れネズミみたいになりながらでも私は走ります。
ソース:【レペゼン地球】楽曲「J」を毎日3ヶ月聴いた感想!
幸い、私が走り始めたとき雨は止んでいた。
それでも私は走った。
直前にファインプレーがあったこと、ぎりぎりブログの月間目標を達成できたともいえるしできなかったともいえるが、つまりできたといっても過言ではないことに高揚し、雨などものともしなかった。
走りながらヘッドバンドを頭にはめて、ワイヤレスイヤホンを耳にはめて、スマホのBluetoothをオンにして音楽プレーヤーも起動して、自分のブログにアクセスして月間アーカイブも再確認して走りながらストレッチもした。
OK、なにもかもうまくいっていた。
私は瞬く間に2km、3kmを通過した。
しかし折り返し地点の6kmも通過する頃には、走り始めたときにあった高揚感は薄れていた。
私は普段、雨が降りしきる日に外で走ることはない。
だからそういう日には、雨が私のパフォーマンスにどう影響するのか、毎回走りながら考えてみるけど毎回よくわからない。
雨で髪が濡れる。
額が濡れる。
水滴が流れる。
悪化する視界。
長袖で拭う。
服が濡れる。
身体が冷える。
しかし、身体は火照っている。
私にとって、走ることで熱を帯びた身体に冷水を浴びることはいいことなのか悪いことなのか、判断がつかない。
ただ「adidas Running」が告げてくる1kmあたりの走行ペースは、晴れの日と変わらなかった。
スマホをポケットから取りだして、また戻して、また手に取る、という動作を何度もこなせる程度には余裕もあった。
私はスマホの音楽プレーヤーを操作して、再生リストを変更したりした。
「King Gnu」から「レペゼン地球」に。
私はDJ社長の声援を聴きながら走り続けた。
しかし走り終える直前、このときも走りながらスマホを見ていた私は、雨のせいで手を滑らせた。
スマホが吹っ飛んでいった。
衝撃でスマホの画面が外れて、スマホは真っ二つになった。
私は泣きそうな顔になった。
けどスマホを拾いにいくと、外れたのは手帳型のカバーで、スマホの画面は無傷だった。
きっとケース型だとこうはいかなかっただろう。
私はスマホのカバーに関しては一貫して手帳派で、画面が守れないケース型を使用していたせいでスマホを落とした拍子に画面バッキバキになった上に修理も買い換えもせずに画面バッキバキのままスマホを使い続けている人間のことを軽く軽蔑している(つまり、とても軽く)。
でも私が落としたスマホは背面がバッキバキに割れていたので、手帳型とかケース型とか関係なく運がよかっただけかもしれない。
まあ問題ない。
私が落としたスマホはバッテリー寿命が瀕死のサブ端末で、軽くSNSだったりジョギングだったりにしか使用していない代物だった。
だから壊れても問題ない。
そもそも画面が無傷で相変わらずワイヤレスイヤホンからは音楽が流れているということは、内部はどこも傷んでいないようだった。
そして背面の傷は手帳型のカバーをすれば見えなくなる。
つまりスマホは壊れていなかった。
そしてこのとき、私が拾ったのはスマホだけではなかった。
私は「お守り」も拾ったのだ。
天上の気配
私が走り終えたとき、雨が止んだ。
私が走り始めた途端に雨が降り始めて、私が走り終えた途端に雨が止んだのだ。
私は天が私に味方したのだと思った。
この言語化は、思い返せば、ということではなく、私はその場で真っ先に直感的に一番最初に、
と感じた。
「天の思し召し」を感じた。
再言語化するなら、「見守られている」と感じた。
しかし、思い返してみても「天」がなにを指すのかはよくわからない。
私は不可知論者だ。
神が存在するか否かについて、私たちの立場は大きく分けると三種類にまで絞れます。神は存在する神は存在しない神は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない一番は有神論者です。二番は無神論者です。三番は不可知[…]
したがっていわゆる「神さま」のことは信じていない。
「神さま」の存在も不在も証明できない以上、「いる」とも「いない」とも思っていない。
ただ「知覚できない(不可知)」という現実を思うだけだ。
つまり私は「神さま」を信じていない。
「信じる」という行為は「証明できないと思われるもの」に対して真価を発揮する。
「証明できると思われるもの」を信じることは容易だ。
翻って「証明できないと思われるもの」を信じることは困難を極める。
私にはできない。
だから私は、
と直感したときでさえ、それが「神さま」であるとは思わなかった。
いまでも思わない。
実情としては「天気予報」とかの「天気」だといえる。
「神さま」よりは「天気」に近い。
しかし、「雨が降った」とか「雨が止んだ」とかは「天気」だが、
のは「天気」ではない。
「天気」は私に味方しない。
私に味方するとすれば、それは「天上の気配」なのだ。
天使を見た
ジョギングを終えた私は、自宅までまだ距離があったので歩いていた。
歩きながらスマホを見て、SNSとかで暇を潰していた。
しかしスマホのバッテリー残量は15%を切っていた。
しかもそのスマホのバッテリーは寿命が瀕死だし、私はジョギングの後遺症で歩行速度が瀕死だった。
つまりこのままではバッテリーが自宅まで持たなかった。
そこで私は、ワイヤレスイヤホンを外してスマホのBluetoothをオフにして音楽プレーヤーも閉じてディスプレイの点灯時間も節約することにした。
暗闇のなか、ちょっと歩いて、歩きながらスマホを見て、すぐ消灯、ちょっと歩いて、歩きながらスマホを見て、すぐ消灯……というジョギングよりも地味で地道な作業を繰り返した。
はたして、私は天使を見た。
それは私がスマホではなく、桜並木を見上げながら歩いていたときのことだった。
残念ながらその桜並木はライトアップされておらず、夜闇には映えていなかった。
月光やどこか遠くの街灯に照らされ、近づいて見ればかろうじて桜だとわかった。
私はそんなお花見よりスマホが見たかった。
それでそろそろスマホを見ようかな、と中毒症状に負けて桜を見上げるのをやめて視線を下げて、前方に。
天使がいた。
私はそのあと、天使が光らないことを理解した。
天使もまたライトアップはされていないのだ。
そして自ら夜闇を照らすこともしない。
あの絵画や映画、ファンタジーもののエンターテイメント作品で描かれる神々しくも光り輝く天使は嘘だ。
天使は光を纏っていない。
見ようとする者にしか見えない。
でも天使は、私に最大限慈悲深く接してくれたと思う。
その証拠に、それは私の正面からやってきた。
私が桜並木から視線を外してそれを見つけたとき、私はまだ「それ」のことを天使だとは思っていなかった。
私がそれのことを「私よりも速く移動している、ぼんやりと浮かんでいる人影」だと思っていると、それはわずかに進路を変えた。
方向はそのままに、明らかに私のほうへと進路をずらした。
おかげで私の「人影とすれ違う」という認識は「ぶつかる気なのか?」という疑惑と危機感に変わった。
私はこのとき初めて、目を凝らしてそれを「見ようと」した。
私がそれを見たとき、それも私のことを見ていた。
それは夜桜よりも美しく、その肌は桜よりも白かった。
私は美形と目を合わせた人間が通常そうするように、少し動揺して目をそらしてしまった。
しかしそれは私に向かってゆらゆらと蛇行していた。
私は衝突を避けるために足を止めかけた。
それは進路を修正して私とすれ違った。
私はなにが起きたのかを考えた。
ただすれ違ったのとは違った。
いますれ違ったそれは、ありえないほど過剰に私へと接近してきて、私が目を凝らして目をそらして足を止めかけたことを確認すると、進路を変えたようだった。
私の反応を見てから進路を変えたのだ。
音はなかった。
私はワイヤレスイヤホンを外していたし、辺りは深い静寂に包まれていた。
私のそばで音がすれば、拾えない音はないはずだった。
でもそれは浮かんでいて、音もなく私のそばを通りすぎた。
「見られている」感じがした。
私が「すれ違った」と思い、「通りすぎた」と思っているそれは、いまも無音で私の背後に忍び寄り、私のことを見ているんじゃないか……。
あるいは「見られている」んじゃなくて、「見守られている」。
私は思い直すと、立ち止まった。
いまのは「天使」だった。
そう判断すると同時に振り向いた。
天使はもう見えなかった。
聖痕
私は帰路に就きながら何度か振り向いたが、その日ふたたび天使を見ることはついになかった。
身体から汗と雨をさっぱり洗い流すと、とても気持ちがよかった。
「天気」とか「天使」とかも綺麗さっぱりどうでもよくなった。
私は現実大好き不可知論者だ。
「天気」とか「天使」とか、偶然が重なって「天上の気配」っぽいものを感じたり、「天の使い」っぽいものを知覚したりしただけだろう。
右腕に赤いアザを発見した。
赤い三日月のような欠けた円、欠けた部分に中点が置かれたようなアザだった。
アザは右腕の前腕、目立つところに滲んでいた。
間違いなく前日にはないアザだった。
私はそのアザをスマホで撮影しようかと思ったが、やめた。
まず第一に、人に見られたらメンヘラの汚名を着せられる。
第二に、証拠を残そうが残すまいが、私の右腕にアザができた現実は変わらない。
自称の事象でいい、それが自傷ではないことは現実が保証してくれる。
私は現実が大好きな不可知論者なのだ。
名前
天気は偶然だろう。
天使は見間違いだろう。
右腕の創痕はもう消えた。
やっぱり写真を撮っておけばよかった、と少し後悔している。
でも右腕を指でなぞると、ある部分で少し腫れた凹凸と痛みを感じる。
そこにたしかにアザはあったのだ。
それだけでこの記事を書くのには十分だった。
そのうち腫れも痛みも消える。
代わりにこの記述を残しておく。
私が神さまのことを信じたくなったとき、その名前を知りたくなったとき、この記述が役に立てばいい。
私がこの先、現実の先を見据えて一歩奥に踏み込みたくなったとき、信じるとすれば2020年4月1日に私に味方した気配を信じる。
ただいまの私に見えるのは、少なくとも天が私に味方したという現実までだ。
THIS IS THE ANSWER.