言葉がゴミだから。
~よくあるレスバトル(小学生レベルの口喧嘩)~
みたいなレスバトル、よくありますよね。
たとえばYouTubeのコメント欄を新着順で見ていて、返信0のコメントが並ぶなかいきなり30件ぐらい返信のあるコメントを見つけて、中身を覗いてみるとこんな感じの言い争いが勃発していたりします。
そういうレスバトルは、コメントの内容を見る限り、おそらくキッズたちが張り切っているんですが、
しかも、40代とかに差しかかって、それなりに社会的な地位を築いているいい歳した大人でもやっています(あとで実例を挙げます)。
いったいこれはどうしたことでしょうか?
私は先月、言葉と現実が一致していない例を書き連ねていて思いました。
そうです、文章力が低いとか、読解力が低いとかじゃなくて……そもそも、「文章」自体にコミュニケーション障害があります。
いうなれば、「言葉」自体がコミュ障なのです。
そのことを言葉を使って表現しなければならない矛盾に私は心が折れそうなので、まずはお酒を飲みます。
文章を読める?いい歳した大人の幼稚な言い争いの例
ソース:三浦瑠麗氏が憤慨「文章を読めるようになってからひとに話しかけて」共産・香西氏の引用ツイに – Yahoo!ニュース – 2022年8月21日閲覧。
上記ソースは要約です。
以下、全やりとりを引用します(すべて2022年7月。同月8日の安倍元首相射殺事件に端を発しています。下のツイートは上のツイートに対して引用リツイートを行なっています)。
~町山智浩氏のツイート~
~町山氏に対する三浦瑠麗氏のツイート~
日曜夜のニコ生選挙特番での福島瑞穂党首の発言にも同様の危険がありました。
~三浦氏に対する香西かつ介氏のツイート~
https://jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-09-18/2021091815_01_0.html
どんな理由があろうと殺人は許されない。しかし霊感商法などでとことん人を追い込む統一教会と自民党のねんごろの関係の真相を明らかにするのはまったく別問題
~香西氏に対する三浦氏のツイート~
~三浦氏に対する香西氏のツイート~
三浦瑠麗氏は41歳、国際政治学者です。
香西かつ介氏は46歳、日本共産党東京都委員会・青年学生部長です。
さすがに40代なら、「いい歳した大人」といって差し支えないでしょう、そんないい歳した大人同士のやりとりが、
片や政治学者、片や日本共産党、そんなご立派な肩書きをぶら下げてやっていることがこれ。
40年間必死に生きてきた結果が、どうしてこんなTwitter小学校ご入学悲劇を生んでしまうのか……?
日本の大人が極めて幼稚なゴミだという説もありますが、もうひとつ有力な説を紹介しないわけにはいきません。
読み書きができても無意味?言語の構造に欠陥がある
私たちは違うからわかりあえないんじゃなくて、同じYouTube動画を見たり、同じ話題に言及したりしているような仲でも……。
同じ国に住んだり、同じ言語を話したり、同じ時代に育ったりしているような仲でも……。
同じ組織に所属したり、同じ職業に従事したり、同じ穴の狢でも……。
科学者は、科学者同士でレスバトルをしています。
弁護士は、弁護士同士でレスバトルをしています。
お医者さんはお医者さん同士、昨今のコロナ禍対策やPCR検査やワクチンの是非を巡って、小学生レベルの口喧嘩を何年もツイートしてきたのは周知の事実です(実例:「Twitter医師団」とか「医クラ」とか呼ばれてバカにされている人たち)。
分析哲学(言語哲学)を専門に扱う世界的天才同士でさえこれです。
つまり本質的な問題は、私たちの知能や職能や言語能力に高低差があるとか、私たちが似ていないことではありません。
問題は、
よく「日本語は欠陥言語」とか「英語は欠陥言語」とか「韓国語は欠陥言語」とかやり合っていますが、意味が重複しています。
そもそも「言語」とは、必ず「欠陥」を内包する構造だということ(「大衆」が、必ず「衆愚」であるように)。
私はこれまで、「ゴミみたいな文章」について、こう考えていました。
- 読者は超能力者(テレパス)ではない
- 書いていないことは伝わらない
- 伝えたいこと(伝えるべきこと)が書かれていない文章はゴミだよ
しかし言語の欠陥は、なにが書かれていようがいまいが、あらゆる文章がゴミであることを指し示しています。
つまり本記事一行目の「言葉がゴミだから」という言葉も、私の考えを十全には反映していないでしょう。
そしてここまで言葉を尽くしても、ゴミの山がそびえ立つのみで、私の考えが積み重ねられているわけえではありません。
言葉で分かり合えないなら?超能力者になるしかない
もうこの道しかありません。
言葉がゴミなら、言葉以外の表現で、言葉以上に伝える超能力が必要です。
あるいは、表現されていないことを読み取る超能力が必要です。
しかし「超能力者になる」は不可能でも、「超能力者を目指す」なら可能かもしれません。
一般的に、文章読解なら、「書かれていないことを読み取る人間」はバカ扱いされます。
たとえば、いらすとやさんのイラストの場合、
たしかに「書かれていないこと」を読み取り、誤解するのはバカです。
でも「書かれていないこと」を読み取り、正解できるならバカではありません。
学校の国語の授業とかで、有名な文学作品を読まされて、「作者の気持ち」を答えさせられるのがバカにされる理由は、
という話であって、本当に作者の意図を正解できるなら、バカではありません。
時には、作者さえ自覚していなかった気持ちを言い当てることができるなら、まさしくそれは超能力です。
でも凡人がそれを目指したところで、結局は「作者が気づいていない作者の気持ちを言い当ててやろう」とばかりに、思いっきり誤解を披露して盛大に迷惑をかけているあのよく見かけるバカになるのがオチかもしれません。
- 天才……書かれていないことを読み取り正解する
- バカ……書かれていないことを読み取り誤解する
- 凡人……書かれていることを読み取り正解したり誤解したりする
私たちが①「天才」になれず、かといって②「バカ」になるのも避けたいなら、やはり③「凡人」で居続けるしかないのかもしれません。
これまで通り、無難に書けることだけを書き、不完全に読み取れることだけを読み取り……。
そして無難に誤解したり、不完全に正解したり、そうやって不自由を強いられるのはやっぱり、
まとめ:超能力が無理なら?文章力と読解力しかない
- 私たちの会話が通じないとき、言語の使用者に問題があるだけではなく、言語自体がゴミである
- もちろん、そんなゴミ言語を頼らないといけない時点で、ゴミ言語の使用者もゴミ人間ではある
- 私たちがゴミから脱却する方法は、言葉の超越だが、超能力者を目指すゴミはやはりゴミである
以上です。
こうして言葉がゴミだということに気づいたとき、私は言葉がメインコンテンツであるこのブログを爆破しかけました。
でもたぶん、私より3倍ぐらい頭が良いヴィトゲンシュタインとかも同じ結論に至って三千里ぐらい先をいっているはずですが、
むしろ、寿命が尽きるそのときまで本を捨てず、言葉を諦めずに文章を綴っていたようです。
なぜなのかは知りませんが……将来、サイコメトラー的な超能力者が現れて、原稿から残留思念が読み取られることを期待していたのかな……。
まあ困ったときは、頭の良い人間の真似をしておくに限ります。
文章力が低いといわれれば、文章力を磨く。
読解力が低いといわれれば、読解力を磨く。
以上、それが理不尽な指摘だとしても、言葉自体が理不尽な欠陥を持っていると知っていれば納得できます(が、それはそれとして、バカはブロックします。なぜなら、ここでいう「バカ」の意味が私以外のだれにも伝わっていないぐらい、言葉がゴミだから)。