日本昔話『やまんばと牛かた(山姥と牛方)』とは、
接客業者が、迷惑客を撃退する復讐物語
です。
つまり『やまんばと牛かた』から得られる教訓は、
勇気があれば、自分を神様だと思い込んでいる妖怪にも立ち向かえる
です。
現実にも、
などが存在しますよね。
でも大丈夫、そっちが妖怪なら、こっちは「牛方」になればいいのです。
ここでいう「牛方」は、牛を連れた行商人であり、ネズミであり、神です。
つまり「牛方」になることができれば、神になることができます。
自分が神になれば、相手が神だろうが、妖怪だろうが、戦えます。
ちょっとここから先は、『やまんばと牛かた』の前提知識を共有しなければ意味不明になるため、物語のあらすじをご紹介しましょう。
もちろん、すでにご存知の方は目次から読み飛ばしてください。
では以下目次です。
日本昔話『やまんばと牛かた』の簡単なあらすじと要約
日本昔話『やまんばと牛かた』の要約は、接客業者が、迷惑客を撃退する復讐物語です。
以下ではもう少し詳しく、『やまんばと牛かた』のあらすじを見てみましょう。
なお後述しますが、昔話にはバリエーション(伝承の過程で細部が変化した話)がいくつもあるため、以下はそのうちのひとつとお考えください。
~やまんばと牛かた~
むかしむかし、あるところに、牛方がいました。
牛方は、牛に魚などを積んで、一緒に歩いて運ぶのが仕事です。
要するに、ウーバーイーツ配達員の牛バージョンみたいなものです。
でもこの牛方はマジメな性格で、売り物である魚を盗み食いしたりは決してしませんでした。
さてしかし、牛方が牛と歩いていると、妖怪ヤマンバが話しかけてきました。
妖怪ヤマンバは腹ぺこなので、荷物の魚か、荷物を運んでいる牛か、牛を連れているおまえを喰わせろ、といってついてきます。
牛方は仕方なく、妖怪ヤマンバに魚を1匹だけ食わせることにしました。
しかし、腹ぺこの妖怪ヤマンバが魚1匹で満足するはずがなく、もう1匹、もう1匹、と要求しながらついてきます。
牛方は、妖怪ヤマンバに魚を食わせないと自分か牛が食われるため、仕方なく魚を差しだすしかありません。
何匹も何匹も、妖怪ヤマンバは魚をムシャムシャとむさぼり続け、そしてとうとう魚が尽きてしまいました。
それでも妖怪ヤマンバは満足せず、今度は牛方か、牛を食べさせろといってついてきます。
牛方は、自分を妖怪ヤマンバに喰わせるわけにはいかないため、
牛を差しだして、一目散に逃げだしました。
しかし妖怪ヤマンバは、牛1頭をモガモガと丸呑みにすると、逃げた牛方を追いかけます。
牛方は、命からがら逃げ延びましたが、必死に走りすぎたため、自分がどこにいるのかさえわかりません。
ふと、牛方は前方に、見知らぬ一軒家を見つけました。
牛方はひとまず、その一軒家の屋根裏に隠れることにしました。
ところが、牛方が隠れた一軒家は妖怪ヤマンバの棲み家でした。
妖怪ヤマンバは、家に帰ってもまだ空腹で、
囲炉裏でお餅を炙って食べることにしました。
家のなかには、お餅が焼けて香ばしい匂いが充満していきます。
一方で牛方も、飲まず食わずで走り続けていたため、腹ぺこでした。
そんななか、妖怪ヤマンバも疲れていたのでしょう、うとうとと居眠りを始めました。
いまがチャンス!
牛方は、囲炉裏の自在鉤を使って餅を突き刺すと、屋根裏まで引き上げて食べ始めました。
何個も何個も、腹ぺこの牛方は、妖怪ヤマンバのお餅を全部食べてしまいました。
さて、これには目を覚ました妖怪ヤマンバもブチギレです、犯人捜しが始まりました。
焦った牛方は、チューチューとネズミの鳴き声を真似して、ネズミに盗み食いの罪をなすりつけました。
妖怪ヤマンバは、ネズミなら仕方がないと諦め、
かまどに載せた大釜のなかで眠ることにしました。
いまがチャンス!
牛方は屋根裏から下りると、妖怪ヤマンバが入った大釜の上に重しをのせ、
火打ち石でかまどに火をつけて大釜を火あぶりにしました。
妖怪ヤマンバは、だれの仕業かと怒り狂います。
牛方は、火の神に放火の罪をなすりつけます。
火の神じゃったら火の神じゃ!
火の神じゃったら火の神じゃ!
もうひとつおまけに、火の神じゃー!!
こうして火の神様となった牛方は、妖怪ヤマンバが燃えカスになるまで、
火吹竹を吹き続けて、かまどの火を燃やし続けたのでした。
以上が日本昔話『やまんばと牛かた』のあらすじです。
ちなみにもちろん、「ウーバーイーツ配達員」などの表現は現代風にアレンジしたものです。
日本昔話『やまんばと牛かた』から学ぶ「妖怪」の特徴
さて、ではこの日本昔話『やまんばと牛かた』から学べることとはなんでしょうか?
「妖怪」に付け入る隙を与えると、身ぐるみ剥がされて骨までしゃぶられるってことです。
たしかに助け合いの精神は大事です。
お腹を空かせた人を見かけたら、アンパンマンなら自分の顔をちぎってでも施しを与えます。
でも相手に応じて対処しなければ、自分の分(アンパンマンなら新しい顔)まで食べられてしまいます。
なぜなら、私たち人間が暮らす社会にも、
妖怪ヤマンバのような人間
が存在します。
そして、
妖怪ヤマンバの犠牲になった牛さんのような人間
妖怪ヤマンバの犠牲になった牛さんの飼い主みたいな人間
も存在します。
言い換えれば、
が存在します。
さて、では自分が「被害者」側に立ったとき、はたして「選別は不要」だといえるでしょうか?
ちなみに『やまんばと牛かた』は昔話らしく、いくつかのバリエーションがあります。
- 妖怪ヤマンバが、牛方の身ぐるみまで剥いで食べるパターン
- 妖怪ヤマンバが、牛方の逃走先にある川を呑み干すパターン
- 妖怪ヤマンバの棲み家には、財宝が蓄えられているパターン
などです。
鬼の妖怪として描かれるヤマンバは、日本昔話『三枚のお札』でも川を呑み干しますね。
また、ヤマンバは元々は山の神であり、ヤマンバの大便からは金銀財宝が取り出せたり、ヤマンバが死亡するとお宝をドロップしたりするという言い伝えがあります。
が、牛方の衣服まで食べる妖怪ヤマンバの姿を鑑みるに、妖怪のほうのヤマンバが持つ財宝や、排出する貴重品って、
人間を食い物にしてため込んでいたものじゃないの?
という疑惑は拭えません。
妖怪ヤマンバが山道で待ち伏せをして、行商人や旅人を襲い、命を奪い、身ぐるみを剥いで金品まで盗んで持ち帰る姿は、想像に難くないでしょう。
そして『やまんばと牛かた』の場合、その被害は、
たった1匹の魚
から始まっています。
それは類似する日本昔話、『さば売りと山うば』パターンでも同じです。
『さば売りと山うば』では、鯖売りが妖怪ヤマンバと接敵したとき、ツケ払い(後払い)で鯖を食うことを許してしまったがために、その後も何日もツケ払いで鯖を食われ続け、最後は代金を踏み倒された挙げ句、鯖売り自身も喰われそうになります。
そして『やまんばと牛かた』の場合、最初は、
魚1匹か、牛1頭か、牛方1人か
という要求でした。
しかし牛方が魚1匹を食わせると、次々に魚全部を食われ、牛を食われ、自分まで喰われそうになります。
このように、妖怪ヤマンバの特徴として、1度つけ上がらせると際限なく要求してくる、というものが挙げられます。
そして世の中には、一方的に金品を強請ったり、過度な接客サービスを求めたりする、妖怪ヤマンバと同じ特徴を持った人間が実在します。
ヤクザだって、
詐欺師だって、
窃盗犯だって、
一度引っかけたカモから、何回も何回も金を引き出しますよね。
そうして骨の髄までしゃぶる習性は、妖怪ヤマンバと同じです。
「牛方」がそこで反撃の狼煙を上げなければ、牛方は毎日仕事で通る山道で待ち伏せされ、死ぬまで食い物にされ続ける運命です。
日本昔話『やまんばと牛かた』で子どもに伝えたいこと
では現実に、妖怪ヤマンバのような人間に絡まれたらどうすればいいのでしょうか?
神に成りましょう。
現実に、といいながらいきなり非現実的な回答で恐縮です。
しかし、『やまんばと牛かた』は同様の日本昔話、
『さるかに合戦』
『かちかち山』
などとは一線を画す復讐譚であり、当然得られる教訓も異質なものになります。
つまり、あのカニたちやおじいさんが、協力プレイや他力本願で復讐を果たしているのに対し、
牛方は、自力で妖怪ヤマンバを燃えカスにしているという点で、
マジに火の神の化身説を唱えても言い過ぎではないでしょう。
『さるかに合戦』の復讐相手は、暴れん坊ではあるものの、たかがサルでした。
『かちかち山』の復讐相手は、邪悪ではあるものの、たかがタヌキでした。
それが『やまんばと牛かた』では、復讐相手はガチの妖怪です。
そのガチの妖怪を相手に自力救済は、もはや神業でしかありません。
そしてそんな神業が可能なのは、つまり神だからです。
火の神は、闇を光で照らし、不浄を焼き尽くし、浄化することで知られています。
また、特に日本の火の神とされる「かまど神」は、農業や家畜の守護神であり、囲炉裏やかまどに祀られ、かまどを現世と冥界を繋ぐ霊道とし、かまどの上に乗ったりする冒涜的な輩には天罰を下すそうです。
そこへきて、
『やまんばと牛かた』の妖怪ヤマンバは、
家畜である牛を食い殺し、
囲炉裏で餅を炙り、
かまどを寝床にするという愚行を犯し、
最期はかまどのなかで焼き殺されて冥界送りとなりました。
牛方が一晩でやってくれました。
もうこれは、牛方=火の神といっても過言ではないでしょう。
だいたい牛方自身、自白しているじゃないですか。
火吹竹を吹いて、妖怪ヤマンバが閉じ込められているかまどの火を燃やしまくりながら、
火の神じゃったら火の神じゃ!
火の神じゃったら火の神じゃ!
もうひとつおまけに、火の神じゃー!!
この意気です。
たとえ牛方が火の神の化身ではなかったとしても、
牛方は火の神に成りきることで、火の神の力を得た
のです。
考えてもみてください、
どうして学校にも病院にもコンビニにも、我が神なりといわんばかりの傍若無人なお客様がいるのか?
「我が神なり」と思っているからです。
なら対抗手段は、同じことをやるだけです。
目には目を、歯には歯を、神には神を。
さあ、神様バトルを始めましょう!
自分が神様に成り切れば、怖いものなどないはずです。
まとめ:神様の真似とて人前で演じれば即ち神様なり!
ではおさらいを兼ねて、ここまでの要点を3点でまとめます。
- 日本昔話『やまんばと牛かた』は、牛方が妖怪に立ち向かう復讐譚
- 牛方は、たった1度の譲歩が命取りとなり骨までしゃぶられかけた
- 命や財産を搾り取られるぐらいなら、勇気を振り絞ったほうがマシ
以上です。
ちなみに私は「神様」、信じていません。
でも成り切ることができる神様なんて、この世にいくらでも、
クトゥグア(クトゥルフ神話)
神絵師(インターネット)
Rap God(エミネム)
いますよね。
ということは、『Rap God』がラップできるなら、ラップの神にはなれるわけです。
ソース:Eminem – Rap God (Explicit) – YouTube – 2021年3月31日閲覧。
ね、簡単でしょ?
EMINEMが神なのは、この『Rap God』を自作して自演するだけの経験に裏打ちされた実力や実績を誇るからですが、カラオケでリリック(歌詞)をなぞって「演じる」だけなら凡人でも(少しの努力で)できます。
この程度で神様になりきれるなら、お安いご用ってやつでしょう。
そして「狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」という言葉がありますが、同様に、
神様の真似とて人前で演じれば即ち神様なり
です。
だから妖怪と戦うために必要なのは、カラオケで歌う程度の、人前で演じる勇気だけです。
さあ勇気を出して、妖怪と戦う準備を始めましょう。
牛方のように!
以上、日本昔話『やまんばと牛かた』から得られる教訓の解説でした。