価値観(方向性)の違い。
~哲学について~
- 私は頭が悪いし、
- 哲学は難しいし、
- 私に哲学はムリ
といった、①②③「哲学を勘違いしている嘆き」をよく見聞きします。
たとえばこの前も、私は初対面の人に趣味を訊かれて、最近は哲学に興味があると答えました。
すると「頭良さそう」と評価されましたが、ここにも①②③「勘違い」が見え隠れしています。
- 映画
- 音楽
- 小説
それこそ、①②③「趣味」の問題であり、その人の価値観や方向性や興味&意欲&関心の問題なのです。
というわけで、私がこの前「頭良さそう」といわれて頑張って否定した結果をまとめます。
では以下目次です。
娯楽作品の良さがわからないのは頭が悪い?
~娯楽作品について~
ソース:Tchaikovsky – The Nutcracker – Marche – YouTube – 2024年11月30日閲覧。
たとえばチャイコフスキー『くるみ割り人形』は、世界三大バレエ音楽の一曲ですが、私は特に好きではないし良さもわかりません。
私は同じく三大バレエ、チャイコフスキー『眠れる森の美女』もよくわかりません。
ソース:Tchaikovsky – Swan Lake (Act II, No. 10) – YouTube – 2024年11月29日閲覧。
同じ作曲者、同じような評価を得ている3作品のうちでも、私は『白鳥の湖』の良さだけ理解できます。
そしてここで起きている現象は、音楽家に限らず、相手が映画監督でも画家でも漫画家でも起きるでしょう。
より詳細にいえば、すべての作者は、自分の思想(価値観や世界観)を作品で表現しています。
一方で、すべての受け手は、自分の思想で作品を解釈します。
このとき、作者の思想と受け手の思想が合えば好きとなり、合わなければ嫌いとなります。
~音楽の場合(好き編)~
と、作品を介したコミュニケーション、共感や相互理解や合意形成が行われているわけです。
ただしそこで、「好き」の場合は、基本的に作品への理解と同意はセットですが……。
「嫌い」の場合は、理解した上での不同意と、無理解ゆえの不同意がありえます。
~音楽の場合(理解&嫌い編)~
~音楽の場合(無理解&嫌い編)~
上記の無理解⇒嫌いに繋がる流れは、まず作品(の思想)を理解できないのだから同意できない。
同意できないのだから好きではない。
好きではないのだから嫌いに傾き、
それは元をたどれば、作品(に隠された思想)に同意するのが難しかったのであり、そもそも理解するのが難しかったのです。
だから私たちはしばしば、「良さがわからない」という状態を「難しい」と表現します。
が、とはいえ音楽を始めとした娯楽作品については、別にその良さが理解できなかったところで、
などと、自分をバカにしながら作品を拒否することはないはずです。
たしかにその作品の良さはわからない、理解するのは難しい、でも別にそれは知能の問題ではない。
思想の問題であり、すなわち価値観や好みの問題である、と承知しているからです。
頭の良し悪しより価値観や好みや関心の問題
~哲学者、中島義道の場合~
なお、ショーペンハウアー学徒の大好きな「意志の否定」は、――論文でも触れたように――私にはほとんどわからず、まるで関心がない。カントの文脈では、「意志の否定」が理性の独断的使用であることは確かであるが、ショーペンハウアーが、自分は独特な直観によってこれを見通していると抗弁すれば、それ以上批判(非難)することはできないであろう。各哲学者は枠組みを設定するとき、必ず独断論に陥る。それをさしあたり無批判に呑み込む者のみが、その哲学のうちに入っていける(私はカントの枠組みを私の個人的な感受性と関心によって選んでいるだけである)。つまり、さまざまな枠組みのうち、何の前提もなしに「最も正しい枠組み」を判定する視点をわれわれは持っていない。もしそれができるなら、とっくの昔に哲学は決着がついていたはずであろう。終焉していたはずであろう。だから、このすべてを承知で、今回私はカントの枠組みをもってショーペンハウアーの時間論を叩いただけである。だから、ショーペンハウアーの枠組みをもって、同じようにカントの時間論を叩くことも可能であろう。
ソース:ショーペンハウアー読本 – 齋藤智志、高橋陽一郎、板橋勇仁(編著) – 法政大学出版局(2007年)
中島義道(日本の哲学教授。イマヌエル・カントが専門)は、アルトゥール・ショーペンハウアーの哲学を批判的に検討しながら、こう述べています。
ここで中島義道は、ショーペンハウアー哲学について、「私にはほとんどわからず」と告白しています。
その理由は、ショーペンハウアー哲学に「関心がない」からであり、知能が足りないからではない。
一般的に、哲学に知能テスト的な難易度を設けるなら、カントは最高難易度です。
一方で、ショーペンハウアーの難易度は一段落ちます(ショーペンハウアー自身は、カントの後継者を自負し、自分の哲学を十分に理解したいならまずカントを理解しろと前提しているわけですがそれはともかくとして)。
そこで中島義道が、つまり知能テスト的には下位カテゴリのショーペンハウアー哲学を理解できるはずのカント哲学者が、
~中島義道の場合~
というなら、問題は知能ではなく、なぜかわからず関心が湧かないという点にあるのでしょう。
中島義道の言葉を借りれば、中島義道は「ショーペンハウアーの枠組み」を「無批判に呑み込む」ことができなかった。
中島義道の知能ではなく、「個人的な感受性と関心」が、ショーペンハウアー哲学を受け付けなかったのであり、
~幼稚園児の場合~
と、幼稚園児がピーマンを拒否しているのと、やっていることは同じです。
中島義道はカントが好き、ショーペンハウアーは嫌い、ただそれだけの話。
そして多くの人間が、哲学自体を嫌い、難しいと感じる理由も同じであり、
自分と同じ思想や精神や哲学なら勉強できる
~表現と思想について~
だからすべての表現には必ず思想が含まれるし、たとえば有名人やインフルエンサーがちょっと社会問題に切り込んだ発言をすると、「思想が強い」などとツッコミが入ります。
そこで「思想がある」といわないのは、思想自体は常に持ち主と一緒に存在するし、常に発信されているからです。
だから受信者たる受け手は、受け取った思想の有無ではなく、思想の強弱を問題にするんだし、
- 政治
- 宗教
- 野球
社会人が①②③「タブーな話題」を設定しているのは、これらは思想が強く出るため、激しい好き嫌いによって仕事に支障を来さないための知恵です。
だから逆に天気の話題など、思想が弱く出る話題は推奨されます。
思想とは人それぞれが独自に持つ個性であり、ゆえに映画や漫画、ゲームのレビューなどを見ても、
~思想(個性)が強い作品のレビュー~
その表現・作品・話題に、個性が強く出れば出るほど、個と個の衝突も大きくなるのは当たり前です。
そして、そんな思想を表現する手段のうち、最も直接的に思想を表現するものはなにかというと……。
最も思想が強く、最も受け手の思想を逆撫でし、だれもが敏感に反応する刺激的な表現とは、
さらに現代人の私たちが「哲学」といわれて思い浮かべるのは、歴史的な大天才の大哲学者ばかりです。
当然、そんな歴史的天才が没個性なわけはなく、みんな異常な個性を発揮しています。
ニーチェの超人思想ではありませんが、天才哲学者たちはみんな超人的な思想を世に放ち、それを受け取った私たちはこう思います。
~天才哲学者の思想~
~一般人の感想~
こうして私たちは、「わからない」を「難解」と解釈し、難解なのは「自分の頭が悪いからだ」と誤解します。
しかし、そこで理解を阻んで高くそびえているのは知能の壁ではなく、思想の壁です。
私たちが通れる壁は、私たちが生まれつき理解しうる思想、私たちが生まれ持った精神だけであり、
~哲学者エルヴェシウスの名言~
といわれているところの「精神」、「同じ精神」という合言葉を持った人間だけが、秘密の隠し扉を通れる仕組みです。
以上の三つの理由により……第一に、哲学とは剥き出しの思想であり、第二に私たちは決まって歴史的な大哲学者を参照する。
そして第三に、その大哲学者と同じ精神を持つ人間などほとんど存在しないことにより、
と感じるのは正しい。
そうです、頭の良し悪しの問題ではないだけで、哲学が難しいと感じる直観は実際そのとおりです。
哲学を学ぼうと思えば、まず偉大な先人をずらりと紹介されますが、そいつらは一人残らず異常者ユニークだし、
と凡人たる私たちは叫び、途中で投げ出すはめになりますが、でもそれは贅沢な悩みというものです。
学問的な意味での哲学の起源を、古代ギリシャのタレスや古代中国の老子あたりに求めるとして、現時点で哲学の歴史は2500年以上もあります。
さすがに2500年もあれば、10年に1人の天才哲学者が250人も存在し、そのなかのだれか1人ぐらいは、
少なくとも、自分と同じ方向を向いてくれている天才哲学者が、最低1人は存在するはずだと希望を持てるはずです。
では探しましょう。
ちゃんと探してないでしょ?
哲学の難しさは、いわばこの「自分の分身探し」にあり、我慢強さや辛抱強さの問題です。
そこで近道をしようとしても、「同じ精神」問題によってバカが手当たり次第にまとめた解説書だの解説動画だのは誤解を免れず役に立たず、原典もしくは原典を忠実に翻訳した本を直接当たるしかない。
しかし、自分探しさえ根気強くやり遂げれば、あとは頭の悪さなんていくらでもカバーできます。
まとめ:アヒルに白鳥の美しさはわからない
- 世界的に高い評価を得た芸術作品や娯楽作品でも、自分の好みに合わないものはわからない
- 頭の良い哲学者や研究者でも、自分の感受性や関心にそぐわない哲学はほとんどわからない
- 逆にいえば、自分の性癖に合致するものならほとんど理解可能であり、哲学も例外ではない
以上です。
有名な童話『みにくいアヒルの子』は、「同じ精神」問題を物語にして伝えています。
つまりアヒルから見れば、白鳥の雛は「みにくいアヒルの子」にしか見えないし、
~バレエ『白鳥の湖』~
ただし、その白鳥の知能次第ではなく、好み次第なのです。
そして好きなら近寄っていくだろうし、嫌いなら遠ざかっていくということが、私たちとあらゆる学問との関係にもいえます。
以上、したがって当然、子どもの頃は嫌いだったピーマンがいつの間にか好きになっているということもありえるでしょう。