この生きる価値がない世界に復讐を。
~これまでのあらすじ~
りゅうちぇるさんは自殺とみられていますが、現時点では遺書の内容はおろか、遺書の存在すら公開されていません。
そんななかでの早急な決めつけには、りゅうちぇるさんの友人たちからも批判の声が上がっています。
ソース1:バービー「誹謗中傷のせいにされてるのが悔しい」 ryuchellさんの死を「誰かに消費されたくない」 – Yahoo!ニュース – 2023年7月28日閲覧。
ソース2:アレン、ryuchellさんに関するデマ拡散に苦言「見当違いも甚だしい事を知ったような口きいて」 – Yahoo!ニュース – 2023年7月28日閲覧。
なぜなら私は生きているし、りゅうちぇるさんやほかの自殺者が遺書を残していなかったとして、なぜ残していないのかなんて知る由もありません。
が、私も自殺するときは遺書を残す気はないので、そのことについてなら書く権利がありますよね。
では以下目次です。
遺書は無意味!生きる意味はないし書く意味もない
~私が遺書を残さない理由その①~
さて、私の根底に横たわる思想は「人生無意味」であり、常に虚無的な脱力に襲われています。
勉強をする、仕事をする、恋愛をする……。
結婚をする、出産をする、育児をする……。
自分の遺伝子を残したから、自分の弟子を残したから、自分の思想を残したから……。
自分の会社を残したから、自分の作品を残したから、自分の遺産を残したから……。
偉業を成し遂げたから、歴史に名を刻んだから、世界文化遺産に登録されたから……、
別にそんなの、5000兆年とか経てば地球ごと消滅していると思うし、どうでもよくない?
人間の気持ちだって、たとえば「遺書があってよかった」とか「遺書がなくて残念だ」とか、その残念っていつまで残るの?
感謝感激雨あられ、でもどれだけ熱い感情でも激しい感動でも永遠の愛を誓ってもせいぜいが「死がふたりを分かつまで」ですぐに忘れ去られるように、思念だって残らないなら、
遺書に近い概念として、ダイイングメッセージ(死に際の伝言)があります。
日本では漫画『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』などでお馴染みですが、殺人事件の被害者が犯人を指し示すメッセージです。
しかし現実に、私がだれかにナイフとかで刺されて30秒後に死ぬとして、運良く血文字でダイイングメッセージが残せるとして、
それで犯人が逮捕されるとして、助かるのは警察やコナン君や金田一少年であって、私ではないし……。
謎が解けてスッキリするのも、関係者や読者や視聴者であって、私ではないし……。
「無念が晴らされたよ……!!」と、お墓の前で報告しているのは遺族であって、
そして私が今日殺人事件の被害者になろうが、50年後とかに天寿を全うしようが、5000兆年後の宇宙から見れば違いなんてない。
私が遺書を残した場合と、残さなかった場合を比べても、有意差はない。
意味のない人生、意味のない自殺、意味のない辞世の句……、
私が自殺を実行するときには、この無気力な希死念慮(自殺したい気持ち)に少なからず影響を受けているはずです。
したがって、遺言は喋るだけ無駄。
遺書は書くだけ無駄であり、
~私が遺書を残さない理由その①~
遺書を捨てよ!マジで死のうって日に書く暇はない
~私が遺書を残さない理由その②~
しかし残念ながら、私は無気力であっても、意味のないことをする能力はあります。
いままさに、意味のない人生を生きながらえ、意味のないブログを書いているのがその証拠です。
つまり、私には意味のない遺書を、それでも書き残す能力がありそうですが、
- 計画的な自殺
- 突発的な自殺
自殺には2種類あります。
もしも私が、①「無気力な思考の行き着く先に死のうと決めた」なら、遺書を書くだけの余暇はあります。
が、②「今日は良い天気だ」的なテンションの上がり方をして、今日は自殺日和だからいますぐ死のうと決めた場合、
良い天気の日には、「書を捨てよ、町へ出よう」って感じになりますよね。
なら同様に、「遺書を捨てよ、マジで死のう」って感じにもなるはずです。
そもそも遺書なんか書こうとするから、だれに宛名しようかとか死ぬ理由は書いたほうがいいのかなとかどれぐらい詳しく書くべきかとかやっぱり理由は伏せておこうかなとか文面はどうしようとか遺書は手書きじゃないとダメだよねとかなんで手書きじゃなきゃダメなんだろうとかもっと綺麗な字で書いたほうがいいよねとか死ぬときまで字の綺麗さや汚さを気にするのかとかでも遺書が晒されたら字が綺麗か汚いかは見られるよねとか死ぬときまで他人の目を気にするのかとかくよくよくよくよ悩むはめになって、
遺書も書けていないし、死ぬ気もどっかいっちゃったし、ダメなやつはなにをやってもダメなんだ……と鬱屈する日々がまた始まる。
私はそういう毎日を生きています。
でも、本当に晴れた自殺日和には、私は迷わず行動するはずです。
早く死にたい、一刻も早く楽になりたい、思い立ったが吉日……!!
そうして仮に遺書を残したとしても、一言二言「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか家族や友人への謝辞を述べて終わります。
そこには余裕がない、時間がない、そしてみんなが知りたい「理由」もない。
- ポジティブすぎる日……自殺日和
- ネガティブすぎる日……自殺日和
自殺の場合は、①「今日は良い天気だ」でも自殺する気力が湧いてくるし……。
②「追い詰められて思い詰めて、自殺以外になにも考えられないよ」状態でも、やっぱり自殺する気力がみなぎっています。
そしていずれにしても、今日が最高の自殺日和なのに、遺書なんか書いている暇はないし、
~私が遺書を残さない理由その②~
遺書は残すな!私を殺すクソみたいな世界に復讐を
~私が遺書を残さない理由その③~
ではもしも私が、自殺日和に恵まれ、計画的に自殺できるほどの気力や時間にも恵まれればなにを望むか?
自殺とは究極の自力救済です。
自分の抱えている不満や不運や不幸に、世界や他人が手を差し伸べてくれないから、自分で手を下す。
- 苦悩
- 苦痛
- 障害
私が無気力+自殺日和(計画的)なら、①②③「自分がこれまで味わってきた地獄」の精算には意味を感じず、ただ自殺を計画するのみです。
私が無気力+自殺日和(突発的)でも、やはり復讐や遺書には時間を割きません。
でも私が気力あり+自殺日和(計画的)なら、
ではどうするべきでしょうか、自分の恨みつらみをこれでもかと遺書にしたためて、私を殺したおまえらが悪いと糾弾する?
つまり、復讐の手段として遺書は残すべき?
以下は遺書ではありませんが、「俺はにじさんじ(VTuber事務所)に殺された」などと主張する迷惑系インフルエンサーがいたので、参考までにそのやり方を見てみましょう(2023年6月)。
~迷惑系インフルエンサー、syamuさんの怨念~
俺の名前で笑ってるV失礼だろ。
蹴れば済む話でしょ。(2023年6月13日)
こういうところが配信界隈やネットの気持ち悪いところなんだよ。
奴らは群がり共有しないと気が済まないんだろうな。
ネタにされるしか価値がないだって?
お前は死ぬまで踊れるか?
お前は死ぬまで笑えるか?
死ぬまで叩かれてみるか?
ネットに向いてないのはお前だろ。(2023年6月14日)
あれから公式は動かず子供達は生きて遊んでいる。結局親は自分の子供が一番可愛く、自分の子供が殺した人間は見殺しにするらしい。にじさんじデカい企業だから対応すると思ったのが間違いだった。俺はにじさんじに殺された。(2023年6月19日)
syamuさんは、syamu_gameとしても知られるネットの有名人です(オフ会を開いて参加者0人だった動画が大バズり⇒ネットのおもちゃへ)。
そして『にじさんじ』所属のアルスさんや叶さん他は、ゲーム『OW(オーバーウォッチ)』中、syamu_gameの本名を名乗るプレイヤーの参加に爆笑していました。
予備ソース:OW部に現れたオフ会0人の男と笑いが止まらないアルス・アルマル【にじさんじ切り抜き】(永久保存版) – YouTube – 2023年7月28日閲覧。
syamuさんが2023年7月現在生きているとしても、「俺はにじさんじに殺された」が誇張表現だとしても、動画配信者なんて最初からネットのおもちゃだとしても。
現在は迷惑系インフルエンサー、へずまりゅう氏などと交流があり、上記のようにネットで暴れたり女子児童とのオフパコ(未成年淫行)未遂を晒されたりしているとしても。
syamuさんの恨みには一理あるし、「誇張表現」などはsyamuさんが生きているからいえることです。
『にじさんじ』および、名指しされているアルス・アルマルさんへのダメージは、計り知れないものになったでしょう。
日本人は、宗教上の理由で「死体蹴り」や「死者に鞭打つ」ことを嫌うので、もはや『にじさんじ』側に勝ち目はありません。
『にじさんじ』側は、どんな反論も言い訳も許されず、アルスさんは引退確定レベルで追い込まれたはずです。
たしかに、そうした復讐を思い描きながら死んでいくのは、めちゃくちゃ気持ちよさそうではあります。
絶対に反論されない立場からの言い逃げ、そして勝ち逃げは、これ以上ない満足感が得られそうです。
そしてsyamuさんは復讐ができてスッキリ、アンチはsyamuさんが消えてスッキリ、私もみんなもsyamuさんが自殺した理由が知れてスッキリ、
- 理解
- 納得
一番の復讐とはなにか、私が考えるに、①②「スッキリ」させないことです。
特定の相手に思い知らせるよりも、世の中になにも知らせないことです。
私が自殺するとして、世の中のだれも私の苦しみを理解しなかったくせに、私が自殺するまで追い込まれていたことを知ろうともしなかったくせに、
おまえらに、私が自殺した理由を知る権利はない。
突然の訃報にあわてふためき、混乱すればいい。
ああだこうだと、知りもしないくせに、的外れな見解を語ってマヌケを晒せばいい。
フィードバックは与えない。
理解も納得もさせない。
反省も改善もさせない。
おまえらはこれからも、私のような自殺者を出し続けていればいい。
クソみたいな世界で、バカに囲まれて生きていけばいい。
これこそ究極の自力救済であり、究極の自己満足であり、究極の自己中であり、
~私が遺書を残さない理由その③~
まとめ:遺書があれば故人の気持ちがわかるのか?
- 遺書を残す意味がないのは、人生に意味がないことを考えれば自明である
- 遺書を残す余裕がないのは、自殺日和がどんな日かを考えれば自明である
- 遺書がある場合とない場合、世界に復讐できるのは遺書がない自殺である
以上です。
まあでも突き詰めれば、遺書があったところで本人が嘘を書いていないとは限らないし、読み手が正確に遺書を読み取れるとも限りません。
つまり遺書があろうがなかろうが、生きている人間にできるのは、「わかった」つもりになることだけです。
萎えたので終わります。
嘘だよ♡ 本当は眠たいから寝たいだけだよ♡♡♡(←この「嘘」の真偽がわからなかったり「眠たい」に「永眠したい」という気持ちが含まれているのかどうかがわからなかったり「♡♡♡」の意味がわからなかったりするなら、あなたに他人の文章や遺書や気持ちを読解する能力はない)。
以上、なぜ遺書を残さずに自殺するのか、私以外にだれも理解できない意味のない記事でした!