日本昔話『さるかに合戦(猿蟹合戦)』とは、
子どもたちが、母親の敵(かたき)を討つ復讐物語
です。
つまり『さるかに合戦』から得られる教訓は、
やっちゃえ、復讐
です。
しかし現代(2021年、令和)の価値観に照らせば、「復讐」はあまり推奨されません。
そこで『さるかに合戦』を子どもなどに教えるとき、学んでほしい教訓は2パターンに分岐します。
- 「復讐」は、たとえよくないものでも、やるべきときにはやっちゃえ、復讐
- 「復讐」は、よくないものだから、やるべきときでもあんまりやるな、復讐
本記事では、圧倒的に①「やっちゃえ、復讐」を支持するため、①について解説します。
②「あんまりやるな、復讐」は『さるかに合戦』ではないので、別の物語でやってください。
では以下目次です。
日本昔話『さるかに合戦』の簡単なあらすじと要約
日本昔話『さるかに合戦』の要約は、子どもたちが、母親の敵(かたき)を討つ復讐物語です。
以下ではもう少し詳しく、『さるかに合戦』のあらすじを見てみましょう。
なお後述しますが、昔話にはバリエーション(伝承の過程で細部が変化した話)がいくつもあるため、以下はそのうちのひとつとお考えください。
~さるかに合戦~
むかしむかし、あるところに、暴れん坊のサルがいました。
暴れん坊のサルは、道ばたで石を拾うと、木の枝にとまっているスズメに投げつけて遊んだり、
柿の種を拾うと、おにぎりを運んでいる母親ガニに交換を持ちかけて、むりやりおにぎりを強奪したりして暮らしていました。
一方で、母親ガニは途方に暮れます……運んでいたおにぎりは、お腹をすかせて待っている子どもたちのご飯なのに、それが柿の種になってしまいました。
それでも仕方なく、母親ガニが柿の種を庭に埋めてみると、柿の木が育ち、柿の実がなりました。
これには母親ガニも、カニの子どもたちも大喜び!
というのはぬか喜びで、カニは柿の木には登れず、柿の実が採れないことに気づいて落ち込みます。
そこへ暴れん坊のサルがやってきました。
母親ガニは、暴れん坊のサルに、柿の実の収穫を依頼します。
暴れん坊のサルは承諾します。
が、暴れん坊のサルは、柿の木に登ると、ひとりで熟した柿の実を食べ始めました。
母親ガニは困惑して、子どもたちにも柿を食べさせてほしい、と暴れん坊のサルにお願いします。
暴れん坊のサルは承諾します。
しかし、暴れん坊のサルがカニたちに投げたのは、まだ熟していない青くて硬い柿の実でした。
暴れん坊のサルは独り占めが邪魔されたことに激怒し、まだ食べられない柿の実をカニたちに投げつけたのです。
何度も何度も、暴れん坊のサルは、高い木の上から地面にいるカニたちに向かって、石つぶてのような柿の実を投げ続けました。
一方で母親ガニは、子どもたちをかばって、背中に投げつけられた柿の実を受け続けました。
それから母親ガニが倒れると、暴れん坊のサルは大喜びで勝利宣言をしました。
子ガニたちは、倒れた母親を介抱し、涙ながらに悔しがります。
でも、暴れん坊のサルには勝てないので、どうすることもできません……。
~後日~
大怪我をして病床に伏している母親ガニのもとに、ウス(臼)とハチ(蜂)とイガグリ(栗)がお見舞いにやってきました。
子ガニたちは、ウスとハチとイガグリに泣きついて、暴れん坊のサルの邪悪さを訴えかけます。
ウスとハチとイガグリは納得し、みんなで力を合わせて暴れん坊のサルを退治することになりました。
それから子ガニたちの一行は、暴れん坊のサルの家に忍び込みます。
そして、イガグリは囲炉裏の火を利用して自爆テロを実行し、暴れん坊のサルのお尻に火傷を負わせます。
暴れん坊のサルは水瓶に逃げ込んでお尻を冷やそうとしますが、水瓶にはハチが待機していて、暴れん坊のサルの火傷をしたお尻に針をぶっ刺します。
暴れん坊のサルが水瓶から跳び上がって痛がっていると、屋根裏からウスが飛び降りて、暴れん坊のサルのお尻を押し潰します。
暴れん坊のサルが身動きの取れない状態になると、子ガニたちが出てきて、暴れん坊のサルの顔面をハサミでチョキチョキ痛めつけました。
こうして暴れん坊のサルはズタボロに討伐され、回復したカニのお母さんに謝罪させられ、もう二度と悪さをしたり暴れたりはしないと誓わされます。
それから寛大なカニ親子は、暴れん坊のサルを許し、仲良く暮らしていくことを提案して、暴れん坊のサルも心を入れ替えたのでした……。
以上が日本昔話『さるかに合戦』のおおまかなストーリーです。
ちなみにもちろん、「自爆テロ」などの表現は現代風にアレンジしたものです。
日本昔話『さるかに合戦』に学ぶ「復讐」と必要悪
さて、ではこの日本昔話『さるかに合戦』から学べることとはなんでしょうか?
「復讐」が必要悪であることです。
繰り返しますが、現代日本の価値観に照らせば、復讐は悪と見なされます。
だれだって、自分や自分の子どもが復讐に手を染める未来を望みはしませんよね。
しかし時に復讐は、必要です。
なぜなら、私たち人間が暮らす社会にも、
暴れん坊のサルみたいな人間
が存在します。
そして、
暴れん坊のサルの犠牲になった母親ガニみたいな人間
暴れん坊のサルの犠牲になった母親ガニの子どもたちみたいな人間
も存在します。
言い換えれば、
- 極悪非道な加害者と、
- 犠牲になった被害者
が存在します。
さて、では自分が「被害者」側に立ったとき、はたして「復讐は不要」だといえるでしょうか?
ちなみに上記の泣き寝入りっぽいイラストには、
被害者遺族
と題していますが、『さるかに合戦』は昔話らしく、いくつかのバリエーションがあります。
- 大怪我をした母親ガニがそのまま死亡してしまうパターン
- 暴れん坊のサルとは和解せず、山or現世から追放パターン
- 「牛の糞」が仕返しに参戦するパターン(牛の糞が!?)
などを含むタイプが『さるかに合戦』として広く知られるようになった物語です。
本記事の「あらすじ」でご紹介したパターン、
- 母親ガニがちょっと怪我をするだけで回復するとか、
- カニが暴れん坊のサルを許して和解を提案するとか、
- カニも暴れん坊のサルも仲良くハッピーエンドとか、
↑こうした甘い展開は、全部子ども騙しのアレンジです。
でも私たちが本当に『さるかに合戦』から得るべき教訓は、
世の中にはどうしようもないゴミがいるってことと、
泣き寝入りが許せないなら、「戦」しかないってこと
です。
タイトルにも入っていますよね。
「合戦」
と。
この世には、戦って復讐を果たさなければ、晴れない気持ちや、救われない感情があります。
自分の親が、一方的に食い物にされたり、殺されたりして、それでも加害者と仲良くやっていこうだなんて思えるでしょうか。
よっぽど親子関係が悪い、それこそ暴れん坊のサルみたいな親を持ってしまった不幸な子どもであれば、加害者に感謝することもあるかもしれません。
しかしそれ以外の、お母さんの手作り料理を子どもたちが喜んで食べているような家庭であれば、許せないのではないでしょうか。
その感情を誤魔化して、子どもたちを騙すのが「教育」だとは、私は思いません。
日本昔話『さるかに合戦』で子どもに伝えたいこと
そこでもし、「復讐」を禁じ手と教えれば、世の中はどうなるでしょうか?
「暴れん坊のサル」は、同じ加害行為を繰り返しますよね。
話し合いが大事とか、話し合えばわかり合えるとか、よくいいます。
しかし、子ガニたちの「復讐」なしに、カニたちは暴れん坊のサルと「話し合う」ことができたでしょうか?
暴れん坊のサルは、『さるかに合戦』の短いお話のなかで、2度も対話を無視しています。
- 暴れん坊のサルは、母親ガニがおにぎりと柿の種との交換を断ったとき、無視しておにぎりを強奪しました。
- 暴れん坊のサルは、母親ガニが柿の実を分けてほしいとお願いしたとき、柿ではなく暴力を食らわせました。
「暴力」をコミュニケーション手段としている敵に対して、「話し合い」は無力です。
どうしても「話し合い」がしたければ、その前に「暴力には暴力を」示さなければなりません。
だからこそ、地域社会は無力なカニたちに助太刀しました。
ウス(臼)
ハチ(蜂)
イガグリ(栗)
などのメンバーが、地域社会です。
ではなぜ地域社会は、「話し合い」に加わるのか?
カニたちの抱える困難(暴れん坊のサル)が、他人事ではないからです。
もし地域社会が、カニたちの被害を黙って見過ごせば、どうなるか。
暴れん坊のサルが最初にカニを攻撃したとき、私は声を上げなかった。私はカニではなかったから
暴れん坊のサルが次にウスを攻撃したとき、私は声を上げなかった。私はウスではなかったから
暴れん坊のサルが次にハチを攻撃したとき、私は声を上げなかった。私はハチではなかったから
そして、暴れん坊のサルが私を攻撃したとき、私のために声を上げる者は、だれひとり残っていなかった
みたいなことになります(ニーメラーの詩)。
だから地域社会は、最初の段階で団結して、カニに助太刀するわけです。
現代風にいえば、
学校や職場で自分以外のだれかがイジメられてるのを無視するなら、自分がイジメのターゲットにされたときにも周囲から同じ対応(無視)を受ける可能性が高い
みたいな話です。
だから社会には、「復讐」や「仕返し」という機能があります。
また、「復讐」や「仕返し」を実行するための暴力もあります。
そこでもし社会の「復讐」や「仕返し」といった加害者に歯止めをかける機能がなければ、どうなるでしょうか?
次に暴れん坊のサルの犠牲になるのは、私たちかもしれない。
その現実に直面したときに、「復讐」なしに納得できるのか?
『さるかに合戦』は、そう私たちに問いかけています。
そして同時に、私たちや私たちの子どもが「暴れん坊のサル」になったとき、どういう目に遭うのかを警告しています。
まとめ:「仕返し」できない人間は「牛の糞」以下
それではおさらいを兼ねて、ここまでの要点を3点でまとめます。
- 日本昔話『さるかに合戦』は、子ガニが親の敵討ちを果たす復讐劇
- 「復讐」は、被害者感情の救済と被害拡大を防止するための必要悪
- たとえ「牛の糞」であっても、社会貢献のため復讐には助太刀する
以上です。
なお、
やっちゃえ、復讐
は私が得た教訓であり、別に答えは「あんまりやるな、復讐」でもかまいません(別の物語でやれ、とは思いますが)。
ただしそれ以前に、こうした残酷な問題と向き合ったり、自分の頭で考えたりした経験のない子どもなど、「教育」を受けたとはいえないのだけは確かでしょう。
そして最後に、復讐もできない腰抜けは、
うんこ野郎以下
だと断言します。
『さるかに合戦』に則っていえば、精神勝利や見て見ぬふりは、「牛の糞」以下です。
しかし『さるかに合戦』の「牛の糞」は、たとえば有名な『まんが日本昔ばなし』パターンでいえば、
ちょっと臭うが、知恵者の牛の糞どん
などと紹介されていて、暴れん坊のサルを懲らしめるための作戦を立案したり、指揮をしたり、軍師ポジションに収まっています。
また別のパターンでは、親の敵討ちにいくカニたちの道中に落ちていて、敵討ちの事情を聞くなり、
ふん、知っているよ。一緒にいこうと思ってここで待っていたのさ。うん
と答えてカニたちの敵討ちに同行するなど、意味がわからないぐらい強者キャラ感を醸し出しています。
したがって、この「牛の糞」以下でもそんなに落ち込む必要はないのかもしれません。
とはいえ、私は嫌ですが……「牛の糞」以下。
受けた恩にはしっかりと報い、受けた仇にはしっかりと報復する、それが人間のあるべき姿ではありませんか?
以上、日本昔話『さるかに合戦』から得られる教訓の解説でした。