文系だの理系だのと文理を分離するのがナンセンスだという話はさておき……。
~日本の実態~
たとえば哲学者のヒラリー・パトナム(西暦1926年~2016年)は、「私たちは水槽に浮かぶ脳みそであり、『水槽の脳』に接続したコンピュータが送信するバーチャルな世界(仮想空間)で生きているかもしれないよね?」みたいな哲学を論じました。
哲学者のソール・クリプキ(西暦1940年~2022年)は、「私たちはみんな同じ足し算をやっているつもりでも、途中からいきなりすべての計算結果が5になる『クワス算』をやっている人が紛れているかもしれないよね?」みたいな哲学を論じました。
はいはい……で、その哲学の研究? 思考実験? が、いったいなんの役に立つの?
哲学と理数系を語る際には、「現代では数学者や物理学者として知られているが、哲学と科学の区別が曖昧な時代に哲学者とも呼ばれていた偉人」が引き合いに出されることも多い。
ピタゴラス、ガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンなど……。
でもそんな小細工を弄さなくても、現代でもガチの哲学者として知られている偉人の実績だけで、
~反証可能性~
もちろん、すべての哲学者が理数系にも秀でているわけではありませんが、かといってレアケースでもない。
というわけで本記事では、「哲学者」⇒「文系の無能」という誤解を解くべく、特に有名な哲学者たちの有能っぷりをご紹介します。
では以下目次です。
「近代哲学の父」デカルトは数学で功績あり
~近代哲学の父、デカルト(西暦1596年~1650年)~
さて、哲学史上もっとも有名なセリフを検討するときに、哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は外せません。
デカルトの懐疑主義・懐疑論は、すべてを疑う哲学であり、のちに「水槽の脳」などに発展する先駆けです。
デカルトの功績は、そうしてすべてを疑った末に決して疑えない真理を見つけたことにあり、たしかに私たちの存在は「水槽の脳」や夢や幻かもしれないと疑うことはできるが、
↑仮に「我思う、ゆえに我あり」さえも疑うとしても、やはりそこには「『我思う、ゆえに我あり』を疑っている我」が存在します(以降無限ループ)。
なにかを疑い続ける限り、そこには常に「疑う我」が存在し続けるので、「我思う、ゆえに我あり」は永遠不滅です。
まあだからなに、と問われれば、特に私たちの実生活に利益とかはもたらさない典型的な「文系の仕事」ですが、
↑こんな感じの座標、横線のx軸(x座標)と縦線のy軸(y座標)を組み合わせるグラフの作成方法を発表したのはデカルトです。
しかもデカルト座標の出典は、デカルトの主著『理性を正しく導き、諸学における真理を探究するための方法についての序説』です。
この『理性を正しく導き~』は、別名『方法序説』であり、「我思う、ゆえに我あり」の出典でもあります。
- 哲学
- 屈折光学
- 気象学
- 幾何学
①『方法序説』はもっとも有名な哲学書の一冊ですが、全体的には①②③④「諸学」を扱った論考でした。
そして④「幾何学」の部分に「デカルト座標」があるって寸法です。
さて、ではデカルトは文系でしょうか、理系でしょうかと考えれば、
「万学の祖」アリストテレスは論理学も開始
~万学の祖、アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)~
さて、哲学者アリストテレスは、「無知の知」で知られるソクラテスの弟子のプラトンの弟子です。
ソクラテス⇒プラトン⇒アリストテレスの師弟ラインは、古代ギリシャの偉大な哲学者ランキングTOP3を独占しています(私調べ)。
そんなアリストテレスの功績は、古代さまざまな学問や思想がごちゃ混ぜになっていた混沌の時代に、
- 『自然学』
- 『形而上学』
- 『ニコマコス倫理学』
- 『政治学』
- 『詩学』
↑アリストテレス関連の著作から「~学」と名付けられたものを並べても、現代の自然科学や物理学、政治哲学や文学に通じるものまで多岐にわたります(ほかにも動物から天体から霊魂に至るまで、「~論」や「~について」が大量にある)。
実際、現代の政治哲学者マイケル・サンデル教授は、その有名な講義『JUSTICE(正義)』においてアリストテレスを取り入れています。
アリストテレス『政治学』には有名なセリフがあり、
~哲学者アリストテレスの名言~
こうした政治学・人間学は、サンデル教授を始めとした現代人にも多大な影響を与え続けています。
しかし、アリストテレス最大の功績は、やはりなんといっても論理学でしょう。
アリストテレスが再スタートさせた学問のなかでも、論理学は特に完成度が高く、
- 大前提……人間は必ず死亡する
- 小前提……ソクラテスは人間である
- 結論……ソクラテスは必ず死亡する
こうして現代においても、伝統的な①②③「三段論法」の例では、アリストテレスの師匠の師匠が死亡することになっています。
また三段論法を基本として、ある前提から論理的に結論を導いていく計算方法を「演繹法」といいます。
演繹法の後継者にはデカルトがいますが、だからこそデカルトはすべてを疑いました。
- 絶対に正しい大前提
- 絶対に正しい小前提
- 絶対に正しい結論
演繹法による計算では、①②「前提」の正しさが、③「結論」の正しさを保証します。
たとえば①「人間は必ず死亡する」が嘘だった場合、人間である私もあなたもソクラテスも、③「必ず死亡する」といえるかは疑問が残ります。
では哲学において、論理を組み立てていくための第一原理、①「絶対に正しい大前提」とは……?
こうしてデカルトは、絶対に疑いようがない①「我思う、ゆえに我あり」からスタートして、ゴールまでの道のりを計算しようと哲学しました。
さて、このような論理的な計算方法は、文系的でしょうか理系的でしょうか?
デカルトが理系でもあるなら、デカルトに影響を与えたアリストテレス、さらにはアリストテレスの師匠のプラトンやその師匠のソクラテスまで、
「哲学的ゾンビ」の問題は文系か?理系か?
~アンチ物理主義、デイヴィッド・チャーマーズ(西暦1966年~)~
最後に、昔の話ばかりしていると怒られそうなので、存命中の現役の哲学者を紹介しましょう。
デイヴィッド・チャーマーズは、思考実験「哲学的ゾンビ」で知られます。
哲学的ゾンビとは、喜ぶべきときに喜んだり、哀しむべきときに哀しんだりする人間的存在であり、
~「哲学的ゾンビ」とは~
- 哲学的ゾンビ……心がない
- 人間……心がある
①「哲学的ゾンビ」は、見た目も中身(内蔵とか神経とか)も生活も、②「人間」と区別できません。
②「人間」と違う点は、精神的な意味での中身、心や意識や経験が抜け落ちている点です。
ただし、②「心」②「意識」②「経験」などは、物理学的・物質的に観測不可能なので、
つまり人間が存在するということは、哲学的ゾンビが存在する可能性も否定できません。
たとえば、デカルトが哲学的ゾンビだった場合で考えてみましょう。
哲学的ゾンビ的デカルトは、人間のデカルトと同じように哲学して、こう宣言します。
哲学的ゾンビ的デカルトは、まさに疑心暗鬼と格闘した末に、最初の真理に到達したように振る舞います。
が、哲学的ゾンビ的デカルトには、「疑心」など微塵もありません。
ただ「疑うべきときに疑う」動作をするようにプログラムされているから、すべてを疑っているような姿勢で活動しているだけで、
しかし私たちは、もしもそんな疑心なきデカルトを見かけても、そのデカルトが人間か哲学的ゾンビかは区別できません。
人間のデカルトを拷問しても解剖しても、哲学的ゾンビ的デカルトを拷問しても解剖しても、反応も内蔵も同じなのです。
では他人の心があるかないかは確認不可能だとして、自分の心はどうでしょうか?
ふむ、他人の心については存在するかどうかなんて知ったことじゃありませんが、自分の心なら存在するっぽい気がしてきます。
でも繰り返しますが、人間的自分と哲学的ゾンビ的自分は、物理的には完全に同じです。
それなのに、自分は心ある人間であり、心ない哲学的ゾンビではないと主張するなら、
だって自分は、物理的には観測できない「心の有無」を、観測してしまっているんだから……。
それはつまり、物理以外の方法で、「心の有無」を判定する方法があると認めているわけだから……。
物理的に胸に手を当てることはできても、その奥に物理学の及ばない領域がある証明だから、
こうしてチャーマーズは、「哲学的ゾンビ」の議論を開始し、物理主義を否定しました。
さてこのような思考実験は、理系の偉大さを蔑ろにした愚かな文系が、言葉遊びに興じているだけでしょうか?
じつのところ、チャーマーズは高校生時代、
理系のことをなにも知らないどころか、むしろ理系畑のエリートであり、若き天才でした。
それが大学までは数学を専攻していたのに、急に哲学に目覚めて転向しています。
いや、それは転向というよりも、そもそも数学や哲学は同じ畑……あるいは同じ鉱山に埋まっており、
~哲学者ショーペンハウアーの名言~
まとめ:数学教授で哲学教授でプラトン信者
- 哲学者のパトナムやクリプキは、それぞれ数学や論理学の分野で功績があり、文系か理系かといわれれば両方である
- 哲学者のデカルトも数学で功績があり、哲学者アリストテレスはそもそも論理学の祖であり、文系理系の両方である
- 哲学者のチャーマーズは、思考実験「哲学的ゾンビ」で有名だが、哲学的ゾンビには文系や理系があるのだろうか?
以上です。
本記事ではとりあえず5名ほど紹介しましたが、もちろん文理両刀の哲人はほかにもたくさんいます。
たとえば、デイヴィッド・チャーマーズの数学オリンピックでは物足りないなら、
~数学教授&哲学教授、ホワイトヘッド(西暦1861年~1947年)~
そのホワイトヘッドと共著で『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』を書いたバートランド・ラッセル(西暦1872年~1970年)もまた、数学・論理学・言語哲学(分析哲学)の世界的スターです。
さらにラッセルから影響を受け、すべての哲学を終わらせかけた言語哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(西暦1889年~1951年)もまた、元々は機械工学出身です。
そして本記事冒頭のクリプキは、ヴィトゲンシュタインを研究した結果『クワス算』を生み出しています。
~数学教授&言語哲学(分析哲学)の祖フレーゲ(西暦1848年~1925年)~
言語哲学においてラッセル、ヴィトゲンシュタインとくれば、フレーゲにも触れないわけにはいきません。
フレーゲ⇒ラッセル⇒ヴィトゲンシュタインの協力関係は、いわばソクラテス⇒プラトン⇒アリストテレスの言語哲学バージョンです。
そしてプラトンの弟子といえば、広い意味ではアリストテレスに限りません。
~ホワイトヘッドの名言~
そう述べたホワイトヘッドは、哲学者としてはプラトン信者です。
現代の数学教授にまで上り詰めたホワイトヘッドが、結局は2000年以上前までさかのぼり、論理学すら整理されていない時代の哲学に回帰した理由はなんでしょうか?
以上、その先は言う必要ないですよね。自分で哲学してみてください。