日本昔話『かちかち山』とは、
夫が、妻の敵討ちを友に依頼する復讐物語
です。
つまり『かちかち山』から得られる教訓は、
持つべきものは友
です。
ちなみに類似する復讐譚『さるかに合戦』との違いは、被害者の態度です。
『さるかに合戦』では、被害者のカニも復讐の実行に加わりました。
一方『かちかち山』では、被害者であるおじいさんは一切手を下さず、ウサギ(仲間)に一任しています。
つまり自力救済が難しいなら、他力本願でもいい。
『かちかち山』は自ら復讐に加担する勇気がない弱者にとっては、救いですよね。
というわけで本記事では、この日本昔話『かちかち山』から得られる教訓を解説します。
では以下目次です。
日本昔話『かちかち山』の簡単なあらすじと要約
日本昔話『かちかち山』の要約は、夫が、妻の敵討ちを友に依頼する復讐物語です。
以下ではもう少し詳しく、『かちかち山』のあらすじを見てみましょう。
なお後述しますが、昔話にはバリエーション(伝承の過程で細部が変化した話)がいくつもあるため、以下はそのうちのひとつとお考えください。
~かちかち山~
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんと、
ウサギが仲良く暮らしていました。
でも近所には、邪悪なタヌキも暮らしていました。
邪悪なタヌキは、ウサギをイジメて怪我をさせたり、そのウサギと仲良しのおじいさんの畑から作物を食い散らかしたりして遊んでいました。
しかしある日、おじいさんは畑の切り株に鳥黐(とりもち)を塗って、
『ごきぶりホイホイ』の害獣バージョンみたいな罠を作り、邪悪なタヌキを捕獲して縄で縛ることに成功します。
おじいさんとおばあさんは、邪悪なタヌキを台所に逆さ吊りにして、今夜はタヌキ汁だ、といいました。
それからおじいさんは、夕飯の支度ができるまで畑の手直しに出かけました。
おばあさんは家に残って、おじいさんが大好きな粟餅(あわもち)を作るために、
臼(うす)に入れたもち粟を杵(きね)でペッタンペッタンつき始めました。
すると邪悪なタヌキが、「おばあさんひとりで餅をつくのは大変だろう、縄を解いてくれれば手伝ってやる」と話を持ちかけました。
おばあさんは一度は拒否しましたが、邪悪なタヌキにいいくるめられ、邪悪なタヌキの縄を解いてしまいます。
さらに餅つきに使う杵が、邪悪なタヌキの手に渡ってしまいました。
邪悪なタヌキは、餅つきに使う杵で、おばあさんを背後から襲いました。
何度も何度も、邪悪なタヌキは、おばあさんを殴りつけました。
しばらくしておじいさんが家に帰ると、おばあさんはもう息絶えたあとでした。
おばあさんの亡骸を抱えて、おじいさんはおいおい泣きました。
そこへ泣き声を聞きつけたウサギもやってきて、おじいさんと一緒に泣きながら、おばあさんの死を嘆き悲しみました。
でもウサギは、泣いているばかりではありません、
ウサギは、おじいさんを慰め、邪悪なタヌキへの復讐を約束しました。
~後日~
ウサギは山に戻り、きび餅と薪を用意して、邪悪なタヌキを待ち伏せしました。
そこへ邪悪なタヌキが通りかかると、ウサギは仕事の話を持ちかけます。
ウサギの薪を背負って運んでくれたら、邪悪なタヌキにきび餅をあげるというのです。
邪悪なタヌキは、ウサギの話に乗っかり、薪を運ぶことにしました。
さて、邪悪なタヌキが薪を背負って歩いていると、うしろで「カチカチ」と音がします。
タヌキのうしろを歩くウサギは、「かちかち山のかちかち鳥が鳴いている」と説明します。
しかし、カチカチ鳴っている音は、じつはウサギが火打ち石を両手に持ち、カチカチとこすっている音でした。
そしてついに火がつくと、ウサギは邪悪なタヌキが背負っている薪に放火しました。
すると今度は、「ボウボウ」と音がします。
ウサギは、「ぼうぼう山のぼうぼう鳥が鳴いている」と説明します。
しかしボウボウ鳴っている音は、もちろん邪悪なタヌキの背負う薪が、ボウボウと燃えさかっている音でした。
やがて、炎は邪悪なタヌキの背中を焼き、邪悪なタヌキは燃えるゴミになりながら、走って逃げました。
~さらに後日~
ウサギは、山で火傷に効く薬を調合しながら邪悪なタヌキを待ち伏せします。
邪悪なタヌキは、ウサギを見つけると、怒り心頭でウサギに詰め寄りました。
しかしウサギは、別のウサギになりすましてはぐらかします。
そしてウサギは、邪悪なタヌキが背中に大火傷を負っているのを見て、「火傷に効く薬」を塗ってあげることにしました。
でもその火傷に効く薬は、辛子味噌でした。
邪悪なタヌキは、大火傷をした傷口に辛子味噌をべたべたと塗りたくられて、大火傷と同じ激痛に、泣きながら走って逃げだしました。
~またまた後日~
ウサギは水辺の前で、小さい木の船と大きい泥の船を作って邪悪なタヌキを待ち伏せします。
邪悪なタヌキは、怒り心頭でウサギに詰め寄りますが、
もちろんウサギは、別のウサギになりすましてはぐらかします。
そしてウサギは、これから魚を捕りに船に乗るが、邪悪なタヌキも一緒にどうかと提案します。
邪悪なタヌキはウサギの話に乗っかり、魚がたくさん積める大きな泥の船に乗っかりました。
でも泥の船で水に浮かんでも、泥はどろどろと水に溶けだします。
やがて泥の船が崩れ、邪悪なタヌキが水に溺れて助けを呼ぶと、ウサギはこう叫びました。
おばあさまの敵(かたき)だ、思い知れ!
以上が日本昔話『さるかに合戦』のおおまかなストーリーです。
ちなみにもちろん、『ごきぶりホイホイ』などの表現は現代風にアレンジしたものです。
日本昔話『かちかち山』に学ぶ吐き気を催す邪悪
さて、この日本昔話『かちかち山』から学べることとはなんでしょうか?
世の中には、吐き気をもよおす『邪悪』が存在するってことです。
たしかに吐き気をもよおすのは問題です。
吐くべきなのは吐瀉物ではなく、話し合いの精神に基づいたわかり合うための言葉、ですよね?
しかし、みんなとわかり合うことはできません。
なぜなら、私たち人間が暮らす社会にも、
邪悪なタヌキみたいな人間
が存在します。
そして、
邪悪なタヌキの犠牲になったおばあさんみたいな人間
邪悪なタヌキの犠牲になったおばあさんの夫(おじいさん)みたいな人間
も存在します。
言い換えれば、
- 残酷非道な加害者と、
- 食い物にされる被害者
が存在します。
では、自分が「被害者」側に立ったとき、はたして「話し合えばわかり合える」といえるでしょうか?
ちなみに『かちかち山』は昔話らしく、いくつかのバリエーションがあります。
- おばあさんがちょっと怪我をするだけで助かるパターン
- 邪悪なタヌキもちょっと溺れただけで救われるパターン
- 最後はみんなで仲直りして、笑顔でめでたしめでたし!
などです。
しかし、『かちかち山』として広く知られるようになったのは、
邪悪なタヌキが、おばあさんの殺害後、おばあさんに化けて、
タヌキ汁の代わりにババア汁を作っておじいさんに食べさせるパターン
です。
なにも知らぬ無知なるおじいさんは、愛する妻を殺され、妻の死肉を食べさせられた挙げ句、
ババア汁食べた! ババア汁食べた! 流し(台所)の下の骨を見ろ!
と煽られて、自分が妻の死肉を食べさせられたことを知らされます。
つまり、
- おばあさんがちょっと怪我をするだけで助かるとか、
- 邪悪なタヌキもちょっと溺れただけで救われるとか、
- 最後はみんな仲直りして仲良くハッピーエンドとか、
↑こういう甘い展開は、全部子ども騙しのアレンジです。
よく「話し合えばわかり合える」などといいますが、そもそも話し合えますか?
自分の身内が殺されて、骨から肉がそぎ落とされて、その死肉を自分が食べさせられたとき、
その料理を作った邪悪
と、直接話し合いたいですか?
人によっては、そんな邪悪と向き合った途端、涙とゲロまみれで話し合いどころではないでしょう。
そんな人に、「話し合え」と要求することの残酷さは、『かちかち山』の残酷さを越えていませんか?
また、物語を通じて「残酷さ」を教えず、現実のぶっつけ本番で「残酷さ」を叩き込もうとすることの残酷さは、想像を絶します。
よく、「事実は小説より奇なり」といいますが、
現実は物語より残酷
だということを、忘れてはいけません。
『かちかち山』程度でひるんでいるようでは、お話にならないということです。
日本昔話『かちかち山』で子どもに伝えたいこと
では現実に、そんな自分ひとりではとても立ち向かえない巨悪と対峙したとき、私たちは泣き寝入りするしかないのでしょうか?
いいえ。
日本昔話『かちかち山』のおじいさんには、ウサギという仲間がいました。
つまり、仲間に頼ってもいいのです。
では私たちには、どんな「仲間」が考えられるでしょうか?
などです。
上記に限らず、上記と同じ共通点を持った仲間を頼りましょう。
ここでいう「共通点」とは、
「暴力」を持った仲間
です。
『かちかち山』のウサギは、タヌキに薪を背負わせて放火するなど、どう考えても「暴力」を使いこなしている過激派です。
また国家は、「暴力」の象徴たる軍隊や警察を組織しているのであり、まさに「暴力」の管理者だといえます。
もちろん法律も、人間を「暴力」で管理する装置であり、死刑を筆頭にあらゆる刑罰は「暴力」です。
一番身近な警察についていえば、そのへんの交番に勤務するお巡りさんが警棒や拳銃を装備しているのを見れば、「暴力」だとわかるでしょう。
つまり、「暴力」を味方につけましょう。
それもできれば、「復讐」ではなく、「予防」の段階で味方にしておきましょう。
そもそも、「復讐」が必要な段階は、わりと手遅れです。
『かちかち山』の例でいえば、おばあさんがすでに殺害されているわけで、どう転んでも負けている感が否めません。
だからこそ、復讐が必要になってから復讐の手段を用意するのではなく、最初から復讐の手筈を整えておく。
最初から、照準以外の「復讐」が用意してあれば?
わざわざ自分から、「復讐のターゲット」に名乗りをあげるバカはそうはいません。
そして復讐の手段があればこそ、「話し合い」の出番もやってきます。
お互いに「死には死を」が実行できる状態で、お互いに死にたくない場合にこそ、「話し合い」が成立します。
もしも『かちかち山』において、ただのウサギではなく、
銃を持ったボディガード
が、おじいさんとおばあさんを守っていれば、邪悪なタヌキが邪悪な行為に出られたかどうかは、疑問ではないですか?
まとめ:残酷な現実と戦っていくための予行練習
ではおさらいを兼ねて、ここまでの要点を3点でまとめます。
- 日本昔話『かちかち山』は、ウサギが友人の敵討ちを果たす復讐劇
- ウサギは恩人には恩を返して報い、死には死をもってお返しをした
- 現実においても、愛情には愛情を、残酷には残酷で返す仲間が必要
以上です。
日本昔話『かちかち山』は、日本屈指の残酷ストーリーとして知られているようです。
が、私はそこまで残酷に徹しているとは思いません。
邪悪なタヌキが、おばあさんの殺害後、おばあさんに化けて、
タヌキ汁の代わりにババア汁を作っておじいさんに食べさせるパターン
でさえ、そう思います。
だって、「残酷」に徹するなら、タヌキ汁は残しておくべきですよね。
あえて「たかだか」とか「だけ」とか表現しますが、
- たかだかイジメられただけで、不登校や自殺に追い込まれてしまう人
- たかだか痴漢に遭っただけで、恐怖におののいて声が出せなくなる人
- たかだかブラック企業に脅されただけで、退職や転職に怖じ気づく人
そんな泣き寝入りの物語で主人公をやっている人間ばかりの昨今、『かちかち山』は刺激が強すぎるのでしょうか。
でもそもそも、なんでそんな負け犬に育っちゃったの?
物語からすらショック耐性を得られなかったから。
これは予習の失敗、教育の失敗です。
残酷な物語は、残酷な現実と向き合っていくためにあるのに。
人間は本来、子どもだって大人が考えるよりも賢明に育つはずだったのに、子どもにはまだ早いとか、悪影響だとか、
子どもにはわからないレベルのことを教えないから、子どもにわかるレベルのことしかわからないアホに育つ。
赤ちゃんに、言葉がわからないからといって話しかけなければ、その赤ちゃんは一向に言葉を覚えない。
大人になってから、などと悠長なことをいっているから、性知識もまともに持たない大人に育つ(そして大人になってからはろくに学びもしない)。
私には、子どもの能力を侮って、可能性を潰して弱々しい存在に育てる大人や親こそ、悪影響の塊に見えます。
ちなみに私が大好きな『アンパンマン』も、当初はアホな大人に批判されていました。
73年、「キンダーおはなしえほん」(フレーベル館)の1冊として、最初の作品をより子ども向けにした絵本『あんぱんまん』を出版。当初は、子ども向けにしては内容が難解ではないかと、批評家や幼稚園教諭などからの批判もあったが、予想に反して子どもの心をつかみ、人気作品となる。
やなせたかしとは – コトバンク – 2021年3月31日閲覧。
2021年最新のトレンドでいえば、『鬼滅の刃』が暴力的だの残虐だの、同様の批判を受けています。
しかし私が子ども時代に、改悪された甘っちょろい、
- 「子ども騙しのかちかち山」
- 「子ども騙しのアンパンマン」
- 「子ども騙しの鬼滅の刃」
などを見せられて毒されていたら、大人を恨んでいたでしょうね(あるいは、恨む対象にすら思い至らないアホな負け犬に育っていたのかもしれませんが)。
私はそんなふうには育たずに済んだので、私を育ててくれた大人や親、そして物語には感謝しています。
以上、日本昔話『かちかち山』から得られる教訓の解説でした。