不幸中の幸いとは、不幸のなかにも幸せを見出すポジティブな言葉……でしょうか?
~「不幸中の幸い」の例~
- 不幸中の不幸……大人は死亡(不幸)、子どもも死亡(不幸)
- 不幸中の幸い……大人は死亡(不幸)、子どもは生存(幸い)
さて、上記のようなケースで使用される②「不幸中の幸い」は、用法としては正しいはずです。
②「不幸はあったけれど、最悪に不幸ではなかったよね」といわれれば、たしかにそうでしょう。
本記事では、私が目撃した「不幸中の幸い」を巡るレスバトル(ネット上の口喧嘩)を基に、なぜ「不幸中の幸い」が争いの種になるのかを解説します。
では以下目次です。
「不幸中の幸い」で発生したレスバトル
~レスバトルのきっかけ~
私が今回出入りしていたコミュニティは、あまりお行儀がよろしくない場所で、きっかけはこんな感じでした。
ただし、コミュニティの特定を避けるため、話題や口調や論調は一部変更しています(本記事で扱う水難事故も実在しません。また私は参加していません)。
さて、不幸中の不幸派(以下、不幸派)に対して、不幸中の幸い派(以下、幸い派)はこう反論しました。
幸い派の主張は、あくまで「不幸」は認めた上で、それでもあえて「幸い」といえる要素にフォーカスするものでした。
実際、「不幸中の幸い」はありえるように思えますし、矛盾しないように思えます。
そして今回の場合、言葉の用法としても、「不幸中の幸い」は正しいように思えますが、
たしかに、「子どもの命が助かった」のは僥倖といえるかもしれません。
が、そもそも、「子どもが溺れた」⇒「救助の大人が死亡した」という不幸が事件全体を包み込んでいます。
大枠として「不幸」に囲まれた事件から、「幸い」を取り出す行為に無理はないのでしょうか?
- 不幸中の不幸……大人は死亡(不幸)、子どもも死亡(不幸)
- 不幸中の幸い……大人は死亡(不幸)、子どもは生存(幸い)
幸い派は、①「不幸中の不幸」と②「不幸中の幸い」を比較して、②「幸い」の正当性を主張します。
しかし不幸派は、その比較を却下します。
- 不幸派の主張……子どもが溺れ、救助者が死亡(不幸な事件)
- 幸い派の主張……しかし、子どもは助かった(事件中の個人)
つまりこの場合、②「不幸中の幸い」とは、「事件中の個人」と言い換えることができます。
たしかに事件性を排除し、子ども単体の生き死にで考えれば、子どもの生存は「幸い」です。
が、実際には事件性があるなかで、①「不幸な事件」の渦中にいながらにして②「幸いな個人」はありえるのでしょうか?
このあとふたりは幸せに、「どっちが先に質問に答えるべきか」バトルを始め、どっちも答えずに対消滅しました。
私はこのレスバトルをジャッジしませんが、感想は次の項目で述べます。
「不幸中の幸い」が失礼になる理由は?
~レスバトルの感想~
レスバトルの勝敗はともかく、感想としては「めんどくさい」で間違いありません。
不幸派の言い分も、幸い派の言い分も、どちらも一理あります。
それはそうですよね、
- 「不幸」に注目……不幸中の不幸派
- 「幸い」に注目……不幸中の幸い派
①「不幸」と②「幸い」のどちらに注目しているかの違いであって、結局は同じ問題を扱っています。
そしてお互いの属性を否定しきれない以上、もう片方の属性から絡まれると、永遠に終わりのないレスバトルに突入します。
いや、喧嘩を売られても、買わなければいい話ではありますが……、
~レスバトルのきっかけ~
私は最初、「頭おかしいんか?」の不幸派が喧嘩を売っているように見えました。
幸い派の「不幸中の幸い」は、正しい用法に思えたし、理解もできたからです。
それに対して、「どこが幸い?」と絡んでいった不幸派を見て、私は思いました↓
↑しかしこれは私の早とちりで、レスバトルを眺めているうち、そして自分でも「不幸中の幸い」について考えているうちに……。
どちらが喧嘩を売ったのか、よくわからなくなりました。
そもそもの発端を考えると、
ある事件を「不幸な事件だ」と捉えている不幸派がいて……。
そこに幸い派がやってきて、「不幸中の幸いだ!」とコメントをする。
厄介なのは、その事件を「不幸」と受け止めることは正義で、その前提は不幸派も幸い派も両者合意している点です。
不幸派からすれば、絶対的に正しい自分の感情を一部でも害されて、「はいそうですね、たしかに幸せポイントもあります!」と引き下がれるでしょうか?
いいえ、気分を害されたのだから、喧嘩を売られたと判断して聖戦モードに突入してもおかしくはありません。
ではもしも相手の感情を害することが、相手に喧嘩を売り、失礼を働くことになるなら、
人間はネガティブな情報に強く反応する
- ポジティブな情報
- ネガティブな情報
人間は、①「ポジティブ」より、②「ネガティブ」に強く反応する生き物です。
私たちは、そういう生存戦略で、今日まで生き延びてきました。
①「上手な泳ぎ方」も①「美味しい食べ物」も①「平和の意味」も、特に覚えられなくても問題はありませんが、
こうして私たちは、楽しい思い出はすぐに忘れるくせに、最悪な思い出はいつまで経ってもたくさん思いだしてたくさん死にたくなります。
死なないために死にたくなるとは、凄まじい矛盾を感じますが、死んでしまったら「死にたい」とすら思えません。
さてそれでは、
- 「不幸」に注目……不幸中の不幸派
- 「幸い」に注目……不幸中の幸い派
↑この分類では、①「不幸派」だけが不幸に夢中っぽく見えますが、じつは②「幸い派」も不幸に夢中です。
しかも、どちらかといえば、②「幸い派」のほうが不幸に夢中です。
~「不幸中の幸い」~
↑今回のケースにおいて、「子どもが死亡した場合」は想像上の不幸で、現実に存在する不幸ではありません。
それなのに、そんな存在しない不幸にまで注目して、現実と比較してしまう。
そして、「不幸中の幸い」などといってしまったが最後、
- 不幸派……現実の不幸に夢中
- 幸い派……幻想の不幸に夢中
結局のところ、これは①「不幸」VS②「幸い」なのではなく……。
①「現実」VS②「幻想」。
どちらも「不幸」を視ているのは同じなのに、少し視点がズレているせいで、①「不幸派」と②「幸い派」に分かれて争ってしまう。
だからこそ、特に他人が感じている「不幸」に水を差すコメント、「不幸中の幸い」は争いを生みます。
仮に「不幸中の幸い」が正しくても、めんどくさいことになります。
そんなちょっとの「幸い」なんかに打ち消されるほど、「不幸」は弱くないからです。
~「幸福中の不幸」~
でも逆に、だれかのヨダレだけで作られたジュースに、たった一滴の美味しいジュースが垂らされていても……。
それは「不幸中の幸い」なんでしょうか?
~「不幸中の幸い」~
まとめ:自虐ネタなら喧嘩にならない?
- 「不幸中の幸い」は、「不幸」と「幸い」両方の性質を併せ持つ
- 人間は、「不幸」に強く反応したい生き物であり、邪魔者は消す
- 「不幸」に「幸い」などと水を差せば、めんどくさいことになる
以上です。
さて、今回取り上げた例は、他人の時事ネタに首を突っ込んで言い争っていたふたりのケースでした。
しかし、完全に自分をネタにする場合は、「不幸中の幸い」といってだれに文句をいわれる筋合いもありません。
~自己完結型「不幸中の幸い」~
↑まあ、本人がそういうなら……。
と思いましたが、やっぱり私の頭の良い友だちとかが、こんな感じになったら……。
私は否定しにいくかもしれません。
と、こんな感じで争いが勃発するため、やはり「不幸中の幸い」は危険ワードです。
いま反出生主義者の人たちに訊いてみたい質問第1位「生まれたのが不幸っていうけど、そんな感じで悩めるのが不幸中の幸いだから生きてる感じ?(逆ハムスター?)」
以上、私は結果を問わず、人命救助のために行動したヒーローの意志には敬意を表します。