あなたが自殺するのは不幸だから、といわんばかりの風潮があるけど……。
~人間の三大欲求~
↑満たされたから終わりにする、なにも矛盾しませんよね。
上記の三大欲求(といわれている食欲・睡眠欲・性欲)は、代表的な例として挙げましたが、ほかの欲求でも同じです。
いろいろな欲求や願望、資産を増やすとか子孫を増やすとか資格を増やすとか、いずれにしても、
- 生の喜び
- 死の喜び
人間は①②「生死」セットの生き物なので、①「生」を味わい尽くした先に、②「死」を欲するのは自然です。
私は成功哲学を勉強中ですが、成功哲学を修めていろいろな成功を修めた先に目指すゴールは、自殺の成功だと予感しています。
つまり、「いろいろな欲求や願望」のなかには、「自殺願望」だってあります。
「わが生涯に一片の悔いなし」は負け犬の遠吠え?
~私の日記~
最近の私はこんな感じです。
自殺願望や希死念慮(死にたいと思う気持ち)は、幸福感とは矛盾しません。
幸福や快楽に浸りながらでも、自殺について考えることができます。
↑ミル「満足した豚であるよりは、不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるよりは、不満足なソクラテスである方がよい」のパクリ。
って感じだし、私は私の人生とは完全に無関係を装えるLGBTやSDGsやBLMについても考えることができます。
そして、漫画『北斗の拳』を読んでいなくても、ラオウについて考えることはできるし、
ちなみに、「わが生涯に一片の悔いなし!!」と叫んだラオウは本当に自死しましたが。
ここで漫画のキャラクターを引用するという、史上稀に見る情けない生き恥を晒しているのは、私が生きているからです。
でも生きているのは、「自殺」を評価するすべての人間も同じだし、
ラオウの最期は、不幸な負け犬の遠吠えだったのでしょうか?
それともセリフ通り、「幸福」と置き換えてもいいような、「一片の悔いなし」で死んでいったのでしょうか?
この問いに対して、まあそれは漫画のキャラなんだから、幸せか不幸かなんて作者でも知りようがない……みたいに答えるなら、
厳密には、他人に心があるかどうかはわからないし、親でさえ自分の子どもが幸せを感じているのか不幸を感じているのかはわかりません(哲学的ゾンビ)。
そもそも、「幸福」とはなにか、という問題もありますが……。
そこを簡略化して、すべての人間には心があり、「幸福」とは主観的な「満足」や「一片の悔いなし」だと仮定しても、
どれだけ思い詰めた行為だと思い込んでいても、実際死んでいないなら、所詮はリスカの延長線上です。
本気で死ぬ気がなかったから確実に死ぬ手段を選ばなかったんでしょう、といわれれば終わり。
事実として、生者は自殺未経験者だし、死者(自殺経験者)はなにも語れないし、
だから私が経験則で語れるのも、自殺願望や希死念慮(死にたいと思う気持ち)まで。
そして自殺願望や希死念慮は、幸福感とは矛盾しないというところまでです。
そこから先は、漫画や他人の話……、
「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」の中身は?
~まんが日本昔ばなし「うばすて山」~
~まんが日本昔ばなし「一寸法師」~
~まんが日本昔ばなし「親を買う話」~
これってたしか哲学者のショーペンハウアーがいっていたんですが、物語はこの「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」形式のハッピーエンドに甘えすぎ問題があります。
私もショーペンハウアーに同意です、そこ一言で済ますのどうなの?
「いつまでも幸せ」とかいうとんでもねぇ偉業を成し遂げているんだから、
- 姥捨て山……国の法律「老人は山に捨てよ」VS年老いた母を捨てたくない息子の話
- 一寸法師……一寸(約3cm)の人間が、鬼退治をして「打ち出の小槌」をもらう話
- 親を買う話……老夫婦が、我が子らの遺産争いにうんざりし、自分たちを売った話
みたいな、幸せを掴むまでのわりと不幸なエピソード、どうでもよくないですか?
私たちは、「幸せ」を知りたいんだよ!!
でも、もしその「幸せ」の正体が、どうでもいい取るに足らない平凡な日常だから描きませんでしたって話なら、
物語では、困難を乗り越えた先に幸福のピークがあって、大満足のあとはカットされます。
じゃあ現実の人生だって、大満足したら、その後の人生はカットしちゃってもいいのでは?
食欲を乗り越えて性欲を乗り越えて睡眠欲も満たしたら、もう死んじゃってもいいのでは?
- 姥捨て山
- 一寸法師
- 親を買う話
↑こうした物語の登場人物が、もうほかにやることがないように。
「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」の中身を描くなら、ご飯を食べたくなったらご飯を食べて眠たくなったら眠ってヤりたくなったらヤる、それの一生繰り返し。
たしかにそんなの、描く価値はありません。
不幸だから死ぬんじゃなくて。
幸福だから、いまがピークだから、あとは消化試合だから……死ぬこともあるのでは?
どんなに美味しいご飯をお腹いっぱい食べたところで、食べても食べてもすぐに消化されて、またお腹が空くだけなんだから……、
人生は毎日同じことの繰り返し!でも自殺願望は?
~人生の欲求不満~
↑底が抜けたバケツで水を汲んでいるバカの図。
このように欲求とは、いくら満たしても満たしても満たされない底なし沼です。
しかしそんな欲求のなかでも、
私たちは生きているので、死んだあとのことはわかりませんが、「自殺願望は復活しないかも」と言及できるだけの可能性はあります。
そして私たちは生きているので、三大欲求やそれに類する欲求の魑魅魍魎は、元気に生きている限り絶対に確実に何度でも復活してくることを知っています。
「足るを知る」という、「すでに満足に値することを知れ、それ以上は求めるな」的な言葉がありますが、
- お腹……無限に減ってくる
- 睡魔……無限に襲ってくる
- 性欲……無限に涌いてくる
どうすんの、この生き地獄……。
無限に栄養エネルギーを吸い取ってきて無限に夢鑑賞チケットを送りつけてきて無限に子作りエネルギーを注いでくる不死身の魔物と戦い続けているに等しい。
なにこれ? 終わっているでしょう、この仕組み考えたやつ。
神様か悪魔か知りませんが、素直にドン引きです。
でも私たちは、この悪魔の倒し方を知っていますよね。
さて、このことに気づいてちゃんと早送りで死んだ人間がいたら、はたして不幸だといえるでしょうか?
あれこれ言い訳をして、生に執着して、今日も死ねない負け犬が幸福だといえるんでしょうか?
「安楽死」とか「尊厳死」とかいえば、不幸な人間の救済措置として挙げられることがほとんどですが、
まとめ:人生が生きるに値するなら?自殺は矛盾?
- ラオウ「わが生涯に一片の悔いなし!!」は、生き続けるより幸せに見える
- 物語「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」は、「幸せ」が存在しない証明
- 生き続けるから幸せだともいえないし、自殺だから不幸だったともいえない
以上です。
カミュ(コロナ禍で再注目を浴びた小説『ペスト』の作者)は、
- 生きるに値する
- 自殺する
①「生きるに値する」が、⇒②「自殺する」は矛盾しませんよね。
たとえばYouTube動画を視聴していて、①「お金を払うに値する」と判断しても、②「無料で視聴する」が成立するように。
同様に、
だから私が自殺したからって、私が不幸だったと思うのは……まあ他人が思うのはその人の問題なので、好きにすればいいと思いますが。
以上、私が自殺をしたときに、私が不幸だったと勘違いしないための記事でした!
それにしても、私はハムスターに生まれたほうがよかったんじゃないだろうか……?(ミルは否定してくるけど……)