友だちと温泉旅行にいった。
しかし「いい湯」という感想は抽象的な表現で、少しでも具体的な内容を想像しようとすれば、ザ・ドリフターズの『いい湯だな』が割り込んでくる程度には中身がない(そして歌詞を思い浮かべてみても、やっぱり中身がない。そもそも「ババンババンバンバン♪ アビバビバビバ♪」「いい湯だな♪ アハハン♪」の部分しか知らない)。
実際「いい湯」と聞いて想像できるのは、せいぜいがザ・ドリフターズの面々のような(世代によって想像する年齢は違うにせよ)中年~老人が、湯上がりに魂を吐き出しそうな嘆息とともに感想を述べている情景だろう。
などと解釈できる人間は、まずいない。
が、本記事で述べる「いい湯」は、親友ができた湯のことを指す。
裸の付き合い
しかし、「絶景」というのはどういう意味だろう、「絶命してもいいと思えるほどの景色や風景」だろうか?
たしかに絶景は、温泉に浸かる私のすぐ脇に広がっていて、肩を抱けるほどの至近距離にあった。
転落防止用の柵とか、仕切りみたいなものは特にないし……というか、あるにはあったけど、それこそ4人~5人家族の末っ子の幼児でも乗り越えられそうな最低限のものしかない。
だから私は、下半身は湯に浸かりながら、上半身は身を乗り出して大自然に晒すこともできた。
さしずめ、「絶命してもいいと思えるほどの天気」ではなかったということだ。
Aさんも自殺未遂をしているんだろうか……それなら邪魔をしてはいけない……と私は思ってAさんを眺めていたけど、もちろんAさんは自殺未遂などしていない。
ただ考えてみれば、あらゆる潜水行為は自殺行為ではないだろうか……だって人間は、鼻や口から呼吸をしなければ生きられないのに、呼吸ができない水中に鼻や口を沈めているわけだから。
でもやがてAさんは水風呂から生還して、
と喘いで気持ちよさそうに笑っていた。
生を実感している笑顔だった。
Aさんは髪をかき上げながら感想を述べた。
まるでかき氷とか、冷たい食べ物を一気に食べたときの感想だけど、それとは違う恍惚の表情だった。
私はAさんが温まっている間にグラスに日本酒を注いであげようと思ったけど、Aさんはさっさと自分で日本酒を注いでしまって私の分までグラスに注いで手渡してくる。
私は露天風呂にアイスペールと酒を持ち込むような、いかにもな成金趣味のなかでも悪趣味の象徴みたいな遊び方はあんまり好きではないと信じたかった。
でも実際やってみると、普通に好きだった。
だって庶民的にいえば、真冬にコタツで温もりながら冷たいアイスを食べるような贅沢はだれだって好きだろう。
雨の日に露天風呂で味わう冷酒は、そういう贅沢の最上級だといえる。
大自然の雨と湿気で蒸れた土草の匂い、温泉と岩盤から蒸気する天然成分の香り、地酒らしい少し癖があって辛気くさいけどフルーティな風味。
それからAさんは私に、
と誘ってきた。
でもそれって、たぶん気絶するぐらい気持ちいいんだろうけど、水風呂でふたり一緒に気絶したら普通にまずいよな……お酒も呑んでいることだし……と私は思った。
親友スイッチ
みたいなことを喋っていると報じられていた。
いや、お盆ど真ん中に帰省の中止を呼びかけてももう遅いでしょ、
旅行先で見ている私たちみたいに。
と私は思って、私が思ったことの一部をほぼ完璧に発音したAさんに気づいてビックリして笑った。
とAさんはいったけど、私は酔っているから笑っているんじゃなかった。
「相手の思っているけど言わないことを完璧に発音する」というのは、共感の最上級で、
私とAさんはふたりで温泉旅行に出かけるような仲ではあったけど、親友かどうかは微妙だった。
親友かと問われれば一瞬悩むし、悩んだ時点で私は親友ではないと判断する。
しかし、ではどうすれば親友になれるのか?
- 友達だったら、(遊びに)入れて⇒いいよ
- 恋人だったら、告白⇒OK
- 夫婦だったら、プロポーズ⇒YES
といったわかりやすいイベントがある。
でも親友には、そういうお決まりのイベントがない。
決定打に欠けていた。
そこへきて、
不覚にも私は、心を丸裸にされたような、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになって笑ってしまった。
別に酔っていなくても、そんなことをされたら笑うに決まっている。
温泉に入っていなくても、身体の芯が火照る感じもする。
これは「お世辞はお世辞だとわかっていても嬉しい」と同じで、ここまで自己分析ができる私でも、「親友スイッチ」を押されると冷静さを少し失う。
でも私はもちろん、こんな気恥ずかしいことをいちいち口に出したり説明したりはしない。
代わりに私は、
といって笑った。
心の付き合い
みたいなことを昔からよくいう。
私はわりとそれに従っているほうだ。
だから私は普段、政治的な話題は自分からは口にしないし、政治家への批判なんてもってのほかだ。
それにだれが相手であっても、
なんて直截的な物言いは、それこそブログ以外ではあんまり口にしない。
Aさんとも、政治の話題で盛り上がったことはなかった。
だからこれは、冷静さを少し欠いた私のジャブみたいなものだった。
「無能は仕事が遅い」の意味は、単なる仕事論や批判や悪口ではなく、
という問いかけだった。
この「本音」で語り合えない相手のことを、私は親友だとは認められない。
支持する政策が違う、信じる神が違う、応援するチームが違う……そんなのは当たり前で、それらを告白した上で付き合える人間が親友だ。
腹の内を見せ合う関係に比べれば、裸の付き合いだって初対面同然だから。
はたしてAさんは、
といって笑った。
私がAさんの「親友スイッチ」を押せたのかどうか、本当のところはわからない。
けど、Aさんは私が「無能」といったときにはすでに吹き出していたんじゃないかという早さで笑っていた。
それで十分だった。
さあそれでは、政治談義といきましょう……なんて無粋な真似を私はしない。
「政治の話題でも話せる」と、「政治の話題で話す」は違う。
温泉、日本酒、寿司……最高じゃないか……。
私はさっさとチャンネルを変えた。
なるほど……じゃあ私の分のお刺身と、Aさんの分のお寿司を交換できたら、私たちは晴れて本当に親友になれるって理解した。
じつはお寿司ってカロリーが……もう日本酒も呑んじゃってるし……という話を私が始めると、Aさんはまた笑った。