神が存在するか否かについて、私たちの立場は大きく分けると三種類にまで絞れます。
- 神は存在する
- 神は存在しない
- 神は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない
一番は有神論者です。
二番は無神論者です。
三番は不可知論者です。
で、私は三番の不可知論者です。
ここまでは前々回、有神論者でありイスラーム学徒である中田考先生の著作「みんなちがって、みんなダメ」の感想記事でも触れていますが↓
【書評】「みんなちがって、みんなダメ」を無料で読んだ感想
今回はこの私=不可知論者による神や幽霊や死後の世界に対する捉え方について掘り下げたいと思います。
神に対する不可知論者の考え方
まず手始めに、改めて自問自答してみましょう。
これが私=不可知論者の答えです。
ではなぜわからないのでしょうか?
答えは、私には知覚できないことだからです。
神が存在するか否か、そんなことは人間には知る由もないんだから、知ったことじゃない……それでも答えを謳うなら、わからないのだから、
というわけですね。
では次に、「神」をもう少し身近な(会えそう感のある)「幽霊」に置き換えて考えてみましょう。
幽霊は存在するか?
ですよね?
たしかに幽霊、なんかいるっぽいけど、霊能者とか心霊スポットとか、「ほんとうにあった怖い話」とか、世の中そういう心霊系のコンテンツであふれてはいますが、しかしガチで幽霊が存在するのかといえば、
が答えです。
だって「ほんとうにあった怖い話」はもちろん、その他の「おわかりいただけただろうか?」などと訊いてくる心霊系のテレビ番組もビデオも、あるいは素人感満載をアピールしてくる心霊動画も、作り物しかないでしょう。
だから「わからない」が答えなんです。
あくまで全否定はしません。
私だって幽霊には居て欲しいですからね、できれば。
でも「幽霊に居て欲しい」と願っていろいろと心霊スポットを巡ったり、情報収集に励んだりした結果、
という現実に直面しているんです。
私の友だちにAちゃん(仮名)という看護師がいるんですが、
みたいなやりとりをしたことがあり、絶望したことがあります。
4は「し」と読んで「死」を連想させる忌み数なので飛ばして、203号室の次は205号室みたいです。
くだらねえ……。
そもそも病院って医「師」とか看護「師」とか患者お世話してるの「し」だらけだし、「病室」なんて「病」+「死」+「痛」なんだけど?
それに○○4号室だけ抜け落ちていたり4階だけ飛ばされてたりしたら不自然だし、そんなの見たら、
って逆に「死」を強く意識するだろうが、としか思えない。
そしてそんなくだらないことを真剣にやってまで「死」を強烈に意識しているくせに、幽霊や心霊現象に遭遇したことがないってどういうことだよ……。
どういうことって、病院に口止めされているか幽霊が存在しないか、じつは忌み数避けが効果覿面かのどれかです。
しかしAちゃんが病院に口止めをされているのか、本当に幽霊を見たことがないのか、あるいは病院に口止めはされていないけど幽霊を見たあと自主的に見なかったことにしているのか、もしくは幽霊を目撃したショックで無意識的な防衛本能が働いて記憶を遮断しているのか、はたまた本当に幽霊なんて見ていないもののAちゃんの霊感がゼロすぎて知覚できなかっただけで本当は幽霊も共存しているのか、忌み数避けが有効だったのかは私にはわかりませんし、だからわかりません。
そう、わからないんです。
それが答えです。
そして幽霊といえば(極楽浄土や天国的な場所に召されるという意味での)成仏ですが、私たちは成仏についてもよくわかっていません。
だって私たちが成仏を知覚できるとしたら、それは未来の話であり、死後の話だからです。
死後の世界は存在するか?
ですよね。
私たちは未来、たとえば「明日」の存在を信じて予定を組んでいますが、しかし明日がくるかどうかは今日が終わるまでわかりません。
私はDJ集団「レペゼン地球」のファンなんですが、レペゼン地球の曲のなかでも特に好きな曲の特に好きな歌詞がこれです。
誰1人として見たことがない
いつだって
目の前に広がってるのは
今日だけ
このとおりですよね。
もしかしたら今日、私はなんらかの事故や病気、自殺や他殺によって急逝するかもしれませんが、その場合私に「明日」はくるのか?
「明日」の存在すら不確かなのに、年金がもらえるかどうかも不明なのに、さらに先の「死後の世界」が存在するかどうかなんてわかるはずがありません。
それでも私たちの死後には天国があるとか地獄があるとか、極楽浄土にいくとか輪廻転生するとか、
とか、それはもうさまざまな説が唱えられていますが、どれひとつとして、だれひとりとして証明できた人間はいません。
だって死んだ人間はもうこの世にはいませんし、その人間の知見が(仮にあったとして)この世に還元されることはないんですからね。
じゃあいつ答えがわかるのかといえば、自分が死んだときにわかるかもしれない、その可能性があるだけです。
それまではわかりません。
なのに現世で「わかった」といい、知ったふうな口を利くやつは全員詐欺師です。
だって儲かるかどうかわからない投資やFX、ギャンブルに対して、
- 必勝法がわかった!
- 絶対に儲かる!
- まだ仮想通貨持ってないの?
などと煽ってくるやつは全員詐欺師か嘘つきかバカでしょう。
そしてもちろん反対に、
- 必勝法なんてない!
- 絶対に儲からない!
- 仮想通貨はオワコン!
などと抜かすバカも同様です。
だということが、これでおわかりいただけたと思います(いや、知りませんが)。
信じるか信じないか?
ではそろそろまとめますが、そもそも「神」や「幽霊」や「死後の世界」などは往々にして、
- 信じる
- 信じない
という文脈で語られますが、「信じるか信じないか」という問いが発生する時点で、半信半疑以上には信じるに値しません。
たとえば自分の恋人や配偶者が浮気や不倫をしているかもしれない、そうした疑惑が浮上したときに恋人や配偶者を、
という問いが発生するのであって、恋人や配偶者に全幅の信頼を置いている状況であれば、そんな問いは発生しません。
ですから「信じるか信じないか」という問いが発生した時点で、信じていない気持ちが紛れています。
つまり半信半疑です。
そして本質的に疑わしいものはどこまで疑っても疑わしいので、「半信半疑」が答えになります。
- 「神」も、
- 「幽霊」も、
- 「死後の世界」も、
全部「半信半疑」が答え。
それ以上でもそれ以下でもありません。
とはいえこの実社会(の知覚とか実在も怪しいとかそういう話は脇に置いておいて)では「半信半疑」では通用しない場面が数多くあります。
でもそうした場面でも、不可知論者は特に困りません。
半信半疑の姿勢を崩さないまま、暫定的に「イエス」か「ノー」を決めたり、その場にふさわしい行動を選択したりするだけです。
たとえば私も日本人なので仏教的な葬儀には縁がありますが、普通に周りと同じように数珠を手にかけたりご焼香をしたり合掌をしたり、
と念じたりします。
でもそれだけで自分が仏教徒だとは思いませんし、仏教側も正式な信徒だとは認めてくれないでしょう(知りませんが。宗派とかありすぎだし)。
そしてその煩悩を見抜かれて、
といわれるなら、普通に出ていきます。
じゃあ結局のところ、
不可知論者は、その宗教で定められた信仰や教義、義務や戒律などを律儀に守る気はありませんからね。
もしかしたら「半信半疑」でありながらも念のために(神が存在したときのために)有神論者と同様の生活を送る不可知論者もいるのかもしれませんが、そんな不可知論者、私は寡聞にして知りません(第一「半信半疑」の時点で信者として不完全なので、外面では有神論者と「同様」であっても内面も含めると「同等」で「同質」といえるのかは微妙です。もちろん神が存在するなら全部見透かしているはずですし……)。
ですから神の存在に対して、
- 信じるなら「イエス」
- 信じないなら「ノー」
の二択を迫られるのであれば、基本的に暫定的に実質的に「ノー」が不可知論者です。
あえてグループ分けをするなら、不可知論者は無神論者の仲間であり、有神論者は仲間外れです。
ということは、不可知論者である私は無神論者の考え方もだいたいわかります。
その証拠に、次回の記事では無神論者になりきって、
と謳ってみせましょう。
今回は以上です。
次回と次々回はこちらです↓
【無神論者とは?】不可知論者との違いや考え方を解説!
【信じる者は?】救われない!神様を信じると地獄に落ちる説
THIS IS THE ANSWER.